パックス・シリカとは
パックス・シリカとは、AI時代に必要な技術サプライチェーンを安全で強靱なものにするため、米国が2025年12月に立ち上げた国際協力の枠組みである。英語では「Pax Silica」と表記する。
対象は半導体だけではない。重要鉱物やエネルギーから、先端製造、通信網、AIモデル、データセンター、物流までを一つの「技術スタック」として捉える点に特徴がある。どこか一国ですべてを自給するのではなく、得意分野の異なる国々が信頼できる供給網をつくる構想だ。
発足時に署名されたPax Silica宣言は条約ではなく、法的拘束力を持たない政治宣言である。参加国は宣言を土台に、政策の調整、官民投資、個別プロジェクト、機微技術の保護などを進める。
名称の「Pax」はラテン語で平和や安定を意味する。「Silica」は二酸化ケイ素を指し、そこから還元・精製されるシリコンは半導体の基礎材料になる。パックス・ロマーナやパックス・アメリカーナを思わせる名称には、AIと半導体を軸に新しい経済秩序を築く意図が表れている。
AIを支える8つの領域
Pax Silica宣言は、協力対象を原料からAIサービスまで広く設定している。主な領域は次のとおりだ。
| 領域 | 具体例 | 供給網での役割 |
|---|---|---|
| エネルギー | 発電、送電網、蓄電 | 半導体工場やデータセンターを動かす |
| 重要鉱物 | レアアース、銅、ガリウムなど | 半導体、通信機器、電力設備の原料になる |
| 精錬・加工 | 高純度化、素材製造 | 鉱石を工業利用できる材料へ変える |
| 先端製造 | 製造装置、材料、部品 | 半導体やサーバーを量産する |
| 半導体・計算資源 | GPU、メモリー、データセンター | AIの学習と推論を担う |
| 通信基盤 | 光ファイバー、海底ケーブル、通信網 | データを安全に運ぶ |
| AIモデル・基盤 | 基盤モデル、クラウド、開発環境 | AIサービスの土台になる |
| 物流・輸送 | 港湾、輸送網、在庫管理 | 各工程を国境を越えてつなぐ |
「Silica」という名前から、シリコン原料の共同調達だけを想像すると実態を見誤る。パックス・シリカが扱うのは、AIをつくり、動かし、社会へ届けるまでの全工程だ。AI政策と産業政策、エネルギー政策、経済安全保障を一体で扱う枠組みと考えるとわかりやすい。
発足と参加国の広がり
第1回パックス・シリカ・サミットは、2025年12月12日に米ワシントンD.C.で開かれた。Pax Silica宣言へ最初に署名したのは、米国、日本、オーストラリア、イスラエル、韓国、シンガポール、英国の7か国である。オランダ、UAE、カナダ、EU、台湾などもサミットや関連協議に参加したが、「会合への参加」と「宣言への署名」は同じではない。
その後、インド、カタール、UAE、スウェーデン、フィンランド、フィリピン、ノルウェーなどが加わった。2026年6月の第2回サミットでは、アルゼンチン、チリ、コスタリカ、エルサルバドル、EU、ドイツ、ギリシャ、カザフスタン、オランダ、パナマの10か国・地域が新たに正式参加し、計24か国・地域へ拡大した。
一方、同サミットで「AIがもたらす機会についてのパートナーシップに関する共同声明」に署名したのは35か国・地域である。この35という数字はPax Silicaの正式参加数ではない。参加国、サミット出席者、別の共同声明への署名者が混同されやすいため、人数を見るときは基準と時点の確認が必要だ。
パックス・シリカは拡大途上にあり、参加状況は今後も変わる。最新情報は米国務省や各国政府の発表で確かめたい。
何を目指す枠組みなのか
Pax Silica宣言からは、主に4つの目的が読み取れる。
一つ目は、過度な依存の軽減だ。半導体や重要鉱物の工程が特定の国・企業へ集中していると、輸出規制、災害、紛争、政治的圧力によって供給が止まる。調達先と生産拠点を増やし、一つの障害で全体が止まらない構造をつくる。
二つ目は、民間投資の動員である。鉱山、精錬所、半導体工場、海底ケーブル、データセンターの建設には巨額の資金が要る。政府間の合意だけでなく、企業、金融機関、開発金融機関を結び、事業として成立させることが重視されている。
三つ目は、機微技術と重要インフラの保護だ。参加国は投資審査や輸出管理を連携させ、半導体技術、AI基盤、通信網などが安全保障上の懸念がある主体の影響下へ入ることを防ごうとしている。
四つ目は、非市場的な慣行への対処である。宣言は過剰生産や不公正なダンピングが民間投資を損なうとの認識を示す。価格だけで調達先を決めるのではなく、供給の信頼性や公正な競争条件も評価する方向だ。
中国排除の同盟なのか
パックス・シリカの公式文書は、特定の国を名指しして排除していない。掲げているのは、信頼、技術的な補完関係、公正な市場慣行、過度な依存の軽減である。
ただし、構想の背景に中国への供給網集中があることは否定できない。中国は多くの重要鉱物で採掘以上に精錬・加工工程の大きな比重を占める。半導体やAIをめぐる米中の輸出規制も強まってきた。米国が「信頼できるパートナー」との供給網を組み立てれば、結果として中国への依存を下げる方向に働く。
ここで重要なのは、全面的な切り離しを意味する「デカップリング」と、重要分野のリスクを減らす「デリスキング」を区別することだ。宣言の文面は、すべての貿易を止めるのではなく、代替供給源を増やして過度な依存を避ける設計になっている。しかし、誰を信頼できる供給者とみなすかは政治判断を含む。枠組みが広がるほど、技術と市場の陣営分化が進む可能性もある。
FORGEとの違い
パックス・シリカと同じ文脈で登場するのが、重要鉱物の国際枠組みFORGEだ。両者は競合する制度ではなく、担当する範囲が異なる。
| 枠組み | 主な対象 | 役割 |
|---|---|---|
| FORGE | 重要鉱物の採掘、加工、再資源化 | 上流の鉱物プロジェクトと政策を調整する |
| Pax Silica | 鉱物から半導体、AI、通信、エネルギーまで | 技術サプライチェーン全体と需要側を結ぶ |
鉱山を開発しても、長期の買い手がいなければ投資は成立しにくい。反対に、半導体工場やデータセンターを増やしても原料がなければ動かない。FORGEが資源側のネットワークを整え、パックス・シリカが下流の製造・AI需要まで接続する関係にある。
日本にとっての意味
日本は発足時からPax Silica宣言へ署名した。日本の強みは、半導体の最終製品だけではない。半導体製造装置、シリコンウエハー、フォトレジスト、精密部品、パワー半導体、光通信、産業用ロボットなど、供給網の要所に競争力を持つ。
参加によって、日本企業には共同投資や海外プロジェクトへの参画機会が生まれる。鉱物の調達先を増やし、同盟・パートナー国の工場やデータセンターへ装置や素材を供給する道も広がる。日本政府が2026年に更新したFOIPでも、AI・データ時代の経済基盤と重要物資の供給網強靱化が重点分野になった。Pax Silicaはこの方針を国際案件へつなぐ手段の一つになる。
同時に、企業の負担も増える。取引先の実質的な所有者、最終用途、製品の再輸出先、サイバーセキュリティ、投資審査を以前より細かく確認しなければならない。参加国の企業だから自動的に安全とみなされるわけでもない。輸出管理や経済制裁は各国の国内法で実施されるため、案件ごとの確認が欠かせない。
今後の焦点
パックス・シリカの評価は、参加国の数ではなく、実際に動くプロジェクトで決まる。注目点は、鉱山・精錬所・半導体工場・海底ケーブル・データセンターへの資金がどこまで集まるか、長期購入契約が成立するか、供給途絶時に相互支援できるかである。
もう一つの焦点は、資源国がどれだけ利益を得られるかだ。鉱石を掘って輸出するだけでは、雇用や技術移転は限定される。現地での加工、再資源化、人材育成まで組み込めるかが、グローバル・サウス諸国の参加を左右する。
パックス・シリカは、完成した自由貿易圏でも、共通規制を持つ国際機関でもない。AI時代の経済安全保障を、個別投資と政策協調へ変えるための枠組みである。企業にとっては、地政学を抽象的なリスクとして眺めるのではなく、調達先、製造拠点、販売市場、技術管理を一つの設計図で見直す契機になる。
よくある質問
パックス・シリカは条約ですか
条約ではない。Pax Silica宣言は法的拘束力のない政治宣言であり、具体策は各国の政策、国内法、個別の投資案件を通じて実施される。
日本はパックス・シリカに参加していますか
日本は2025年12月の発足時に宣言へ署名した7か国の一つである。第2回サミットにも参加し、AI関連の供給網強化や経済安全保障の協力を続けている。
半導体だけを対象にした枠組みですか
半導体だけではない。重要鉱物、精錬、エネルギー、先端製造、AIモデル、通信網、データセンター、物流までが対象になる。
NATOのような軍事同盟ですか
軍事同盟ではない。相互防衛義務はなく、中心は経済安全保障、技術協力、供給網、民間投資である。




