1960年の取り決め
インダス水条約はインドとパキスタンが独立から13年後に結んだ、珍しい成功例とされてきた。
取り決めの骨格はシンプルだ。インダス川水系の東側三川(ラビ川、ビアス川、サトレジ川)はインドが使い、西側三川(ジェルム川、チェナブ川、インダス川本流)はパキスタンが使う。西川でもインドは発電利用が認められているが、農業用水や工業用水には手をつけない。
この取り決めがあったから、印パが二度の戦争をした時期も含めて60年以上、水をめぐる大規模な紛争にはならなかった。世界銀行が調停した成果として、外交史のテキストにも載っている。
「カシミールのテロに水で応える」という論理
条約停止の根拠として、インド政府は「テロ支援への対抗措置」を挙げた。
パルガムの銃撃事件を、インド当局はパキスタンを拠点とする武装集団の関与と断定している。パキスタンは否定している。この対立は解決していない。
パキスタン側の外務省は「水は武器ではない。条約は国際法に基づく義務であり、インドには遵守する責任がある」という立場を繰り返している。国際司法裁判所への提訴も視野に入れているとされる。
実際に取水を物理的に止めることは、現時点では難しい。インフラが整っていないし、川は地続きだ。今のところ条約上の協議の場を閉じたという意味合いが強い。将来的にインドが上流でダムや取水設備を増やすことへの布石とも読める。
パキスタン農業への打撃
条約が実際に失われれば、パキスタンの農業は深刻な打撃を受ける。
農業はパキスタンの国内総生産の22%を占め、輸出の60%を農産品が担っている。インダス川の水は、パンジャブ州やシンド州を流れる灌漑用水路に直結している。インダス川水系の流量が減れば、コムギや綿花の生産量に直接響く。
「ダム1基分の水が届かなくなるだけで、農家の収入が2〜3割減る地域もある」と国際農業開発基金の担当者は指摘している。飢えの問題が、軍事的な対立から独立して悪化する可能性がある。
停戦後の枠組みがない
5月の停戦は米国の仲介で成立したが、停戦はあくまで軍事的な戦闘の停止だ。
水の問題、カシミールの帰属問題、国境紛争——これらに触れる枠組みは停戦合意の中に含まれていない。サウジアラビアやトルコが調停の場を設けようとしているが、両国とも本格的な交渉への参加を渋っている。
日本にとってこの問題が遠いわけではない。パキスタンは日本の政府開発援助(ODA)の主要対象国のひとつで、インダス川水系への灌漑インフラ整備に長年関わってきた。インダス水条約が実質的に機能しなくなれば、そのインフラが持つ意味も変わってくる。
「水を止める」という選択肢は、一度使われると外せなくなる。それが現状だ。
まとめ
- インドはカシミール銃撃事件を受けて60年以上続くインダス水条約を一方的に停止した。パキスタンはこれを「水の脅迫」と批判し、国際司法裁判所への提訴も視野に入れている
- 条約が実効的に失われれば、インダス川水系に依存するパキスタン農業(GDP比22%)は深刻な打撃を受ける。現時点での停止は協議の枠組みを閉じた段階にとどまるが、将来の取水インフラ拡大への布石と読む見方もある
- 5月の米仲介停戦は軍事的な戦闘の休止にすぎず、水問題・帰属問題を含む包括的解決の枠組みは存在しない。日本はODAを通じてインダス川水系に長年関わってきた
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