「モンスーンが壊れた」
南アジアのモンスーンは6月から9月にかけて吹く季節風だ。インドのGDPの約14%を農業が担い、農業は雨季に依存している。
モンスーンそのものは必要な雨だ。問題は「壊れた」ことにある。
従来の気象学者が観測してきたパターンは変わった。雨が来なかった地域に一気に集中豪雨が降り、逆に来るはずの地域が空梅雨になる。気候変動が大気の水分量を増やし、降水の「ムラ」を拡大している。
「今年のモンスーンは量は多い。でも欲しい場所に降っていない」 パキスタン気象局のイムラン・アフマド局長は地元紙のインタビューでそう言った。
カイバル・パフトゥンクワ州だけで死者51人、パンジャブ州22人、バローチスターン州6人。 アザド・カシミールでは7人が土石流で亡くなった。
インドでも「洪水の連鎖」
インドの洪水は北から南まで同時進行だ。
7月20日、カシミールで15人が死亡した。同日、ナガランドでは地滑りが9人の命を奪った。 7月23日、ケーララ州では40人超が洪水で亡くなり、2万7000人以上が避難センターへ向かった。
「毎年同じ場所が水没する。それが今年は3倍の速さで来た」 ケーララ州の地方行政担当者は地元メディアにそう語った。
インドでは洪水・地滑り・雷雨による年間死者数が直近10年で平均2000人前後に上っている。今年はその数字を8月初旬の段階でほぼ超えるペースだ。
ケーララ州はインド南端の州で、中東やアジア各国への出稼ぎ者が多い。海外で働く家族が仕送りを続けているが、洪水で自宅が浸水すれば仕送りの使い道がすべて修繕費に消える。「海外で頑張っても洪水が全部持っていく」という感覚が、この州の農村部で広がっている。
2022年の悪夢が再び
2022年、パキスタンの洪水は死者1700人超、被災者3300万人という規模に達した。国土の3分の1が冠水し、農地が壊滅した。その復興はまだ終わっていない。
「まだ2022年の借金を返している農家が、また洪水に遭った」 パキスタン農業省の元次官、ナシム・アフマド氏はこう言った。
国際通貨基金(IMF)の分析では、2022年の洪水によるパキスタンへの経済的ダメージは300億ドル(日本円で約4.5兆円)を超えた。この規模の被害が繰り返されると、国家財政の回復力がゼロになっていく。
今年の洪水はまだ8月。モンスーンが終わる9月末まで、被害の集計は続く。
国連人道問題調整事務所(OCHA)は7月29日付の報告書で、パキスタン全土の被災者数がすでに170万人を超えたと発表した。食料、飲料水、医療のアクセスが制限されており、感染症の二次被害が懸念されている。浸水後にコレラや腸チフスの感染者が急増するパターンは2022年に経験済みだ。
「脆弱な国」が先に沈む
南アジアの洪水を気候変動と結びつける議論は慎重に扱う必要がある。洪水は毎年起きてきた。
だが「頻度と強度の変化」については、データが出ている。
世界気象機関(WMO)の2025年報告書によると、南アジアにおける「極端な降水事象」の発生頻度は過去20年で30%増加した。インド洋の海面水温が上昇し、モンスーンに供給される水蒸気量が増えているためだ。
割に合わないのは、温暖化への貢献が小さい国が先に沈んでいることだ。
パキスタンの年間CO2排出量は世界の0.8%だ。インドは3%。だが両国が受けている気候被害の規模は「排出量の多い国」をはるかに上回る。
この非対称性を気候交渉では「損失と損害(Loss and Damage)」と呼ぶ。2022年のCOP27でようやく損失と損害基金の設立が合意されたが、実際の拠出額は被害規模に対して桁違いに小さい。パキスタンの2022年洪水被害は300億ドルを超えたが、世界全体の損失と損害基金の拠出総額は3年で数億ドル規模にとどまっている。
加えて、警報があっても「避難できない人」の問題がある。高齢者、障害者、乳幼児を抱えた家族、家畜を手放せない農家——「逃げてください」という警報が出ても、物理的に逃げられない事情を抱えた人がいる。洪水への「適応」は技術や資金だけでは足りない。
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日本の農業・繊維産業への影響
日本との関係は見えにくいが、ある。
バングラデシュとパキスタンは日本への繊維輸出の主要国だ。洪水で工場が浸水し、生産ラインが止まれば、日本のアパレルブランドのサプライチェーンに影響が出る。
インドの農業被害は米・小麦・砂糖の国際市場価格に波及する。 インドは小麦と米の輸出規制を2022年から断続的に実施しており、今年も洪水被害が深刻なら再び規制に動く可能性がある。
「食料価格は遠い話ではなくなった」とスーパーのバイヤーが言うのは、こういう経路を通じてのことだ。
インドが小麦や砂糖の輸出規制に動けば、国際市場での価格上昇圧力は日本の食品メーカーにもかかる。すでに砂糖の国際価格は2025年比で1割超上昇しており、製菓各社が価格転嫁を続けている。「遠い南アジアの洪水」は、スーパーの値札を通じて近くなっている。
モンスーンは9月末まで続く。今年の被害の最終的な集計が出揃うまで、数字は増え続ける。「南アジア全土が沈んでいる」は比喩ではなく、実際に進行中の現実だ。
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