「世界の亀山モデル」の隣にあった工場
時系列を並べると、少し意外な事実が見えてくる。
シャープが亀山への進出を発表したのは2002年2月だった。三重県と亀山市は総額135億円規模の補助金でこれを迎え、第1工場は2004年1月に稼働。第2工場と合わせた投資額は最終的に4,000億円規模に達したとされる。
一方、日東電工の亀山事業所が操業を始めたのは1969年である。電気絶縁材料の集中生産を目的とした拠点だった。シャープが来る33年前から、この街で稼働していたことになる。
片方は国内最大級の液晶拠点として全国的な話題をさらい、片方はほとんど名前を知られないまま部材を作り続けた。そして2026年、話題をさらったほうが火を落とし、知られていないほうが増産に踏み切っている。
回路付サスペンション基板とは何か
耳慣れない部材なので、まず位置関係から確認したい。
HDDの内部では、高速で回転する磁気ディスクの上を、磁気ヘッドがごくわずかに浮上しながら移動している。このヘッドを先端で支えているのが、細長い金属のバネ状部品であるサスペンションだ。
回路付サスペンション基板は、そのサスペンションの上に極細の配線を形成した部材である。ヘッドとHDD本体をつなぎ、読み書きの電気信号を運ぶ役割を担う。日東電工はこれを「CISFLEX」というブランドで展開している。
同社の説明によれば、ヘッドの浮上量はディスク面からおよそ10ナノメートル。髪の毛の直径の1万分の1に近い距離で、金属の板が接触せずに走り続ける必要がある。
つまりこの部材には、電気を正確に通す配線としての性能と、ヘッドの姿勢を保つバネとしての機械的な精度が、同時に求められることになる。この二つを1枚の薄い金属基板の上で両立させている点が、他の電子部品と違うところだ。
なぜ9割超のシェアが続いてきたのか
この分野で日東電工が抜けている理由は、単純な設備規模の話ではなさそうだ。
同社は感光性ポリイミドという材料を自前で開発し、そこにセミアディティブ工法と呼ばれる薄膜回路の形成技術、ロールツーロールでの連続生産技術を組み合わせている。材料から工法までを一続きで持っている点が、模倣を難しくしていると見られる。
加えて、HDDの大容量化が進むたびに要求仕様が変わる。基板の薄膜化、グランド配線を含む多配線化、伝送特性の改善といった注文が、完成品メーカーの世代交代のたびに降りてくる。
そのつど作り替えられる部材なので、既存の量産ラインを持っていない後発が途中から入るのは容易ではない。20年分の作り込みが、そのまま参入障壁になっている構図と言える。
もっとも、シェアが高いことは単純な安泰を意味しない。次で見るように、この構造は上流の需要変動をそのまま受ける側面も併せ持っている。
AIの爆発が亀山に届くまでの経路
生成AIの普及と、亀山の基板工場はどうつながるのか。経路を分解すると意外に短い。
生成AIが扱うデータは、テキストから画像や動画へと重心を移してきた。学習に使う元データ、生成された成果物、そして再学習のために保管される中間データが、いずれも容量ベースで膨らんでいる。
これらの多くは頻繁に読み出されるわけではない。そこで容量単価の安いニアラインHDDが受け皿になり、データセンター向けHDDの需要が急に立ち上がった。詳しい需給の構造はHDD不足はなぜ起きたのかを整理した記事にまとめている。
ここで効いてくるのが、HDDの容量の増やし方だ。1台あたりのディスク枚数を増やす方向で大容量化が進むと、枚数に比例してヘッドの数が増える。ヘッドが増えれば、それを支える回路付サスペンション基板も同じだけ必要になる。
つまり「AIの利用が増える」ことが、台数だけでなく1台あたりの部材点数の増加としても効いてくる。亀山の生産計画が引き上げられた背景には、この二重の押し上げがある。
280億円と生産能力4割増という判断
日東電工は2026年7月、この部材の生産能力を2028年度までに引き上げる計画を公表した。投資額は280億円で、2025年度比で約4割の増強を見込むとされる。
内訳を見ると、判断の性格が見えてくる。150億円はベトナム工場のライン増設に、残る130億円は各拠点の自動化とデジタル化に充てるという内容だ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 投資総額 | 約280億円(2028年度まで) |
| 生産能力 | 2025年度比で約4割増 |
| ベトナム工場のライン増設 | 約150億円 |
| 各拠点の自動化・デジタル化 | 約130億円 |
| 生産拠点 | 三重県亀山市、ベトナム、中国の3拠点 |
| 出荷前検査 | タイに拠点を設置 |
新設一辺倒ではなく、既存拠点の生産性を上げる側にも半分近くを振っている。HDD市場は過去に大きな需要の谷を経験しており、その記憶が投資設計に残っているようにも読める。
同じ時期、HDD部材を手がける他の日本企業も似た慎重さを見せている。レゾナックは閉鎖した台湾拠点の設備をシンガポールへ移設する形で増産し、HOYAは既存展開国であるベトナムに4拠点目を置いた。
全社が一斉に大型の新工場を建てるという動きにはなっていない。そのことが、需給の緩みにくさにもつながっている可能性がある。
亀山事業所が担っている位置
3拠点のうち、亀山はどんな役割なのか。公開情報から読み取れるのは、量そのものより工程を作る側の比重が大きいという点だ。
同事業所では2018年から高精度基板の新工場プロジェクトが進み、2019年に建屋が完成、2020年から量産に入っている。この立ち上げに際して、パナソニックの製造実行システムを導入し、工程情報の収集と可視化の仕組みを整えたことが公表されている。
紙や個別の記録に頼っていた工程管理をデータで扱えるようにする取り組みで、そこで確立した作り方を海外拠点へ展開する流れが想定される。今回の投資で自動化とデジタル化に130億円を割いている点とも、方向としては一致している。
そう考えると、亀山は最先端品の立ち上げと生産技術の確立を担い、量産の一部をベトナムや中国が受け持つ分業に近い。工場としての存在感は、出荷量の数字だけでは測りにくい種類のものになる。
日東電工は同事業所を、エレクトロニクス分野で50年以上貢献してきた拠点と位置づけている。液晶やスマートフォン向けの部材も同じ敷地で手がけており、HDD向けだけの工場ではない点も押さえておきたい。
目立つ産業と、目立たない産業
亀山という街の産業構造も、この対比を後押ししている。
亀山市の資料によれば、製造品出荷額は8,766億円規模。人口4万9,000人ほどの市としては、かなり製造業に寄った経済である。1975年以降、自動車関連産業と非鉄金属産業がそれぞれ出荷額の4分の1以上を占めてきたとされる。
隣接する鈴鹿市にホンダの工場があり、古河電気工業の銅線工場に代表される非鉄金属の集積もある。液晶が来る前から、この街は部材と部品の街だった。
「世界の亀山モデル」というブランドは、消費者が直接手に取れる完成品だったから広まった。一方でサスペンション基板や銅線は、最終製品の中に隠れてしまうので語られにくい。
ただし語られにくさと重要性は別の話だ。完成品の拠点は市場と為替の変動で移りやすく、部材の拠点は技術の蓄積とともに残りやすい、という傾向もある。亀山で起きたことは、その典型例として読める部分がある。
とはいえ、部材なら安全という単純な話でもない。次に見るように、この立ち位置には固有の脆さもある。
業績にどう表れているか
日東電工の直近の数字を見ると、この領域の追い風はすでに表面化している。
同社は2026年7月、2027年3月期の通期見通しを引き上げた。売上収益は1兆1,100億円、営業利益は2,000億円、純利益は1,420億円とされ、いずれも過去最高となる水準だ。従来予想からの上積みは、売上で450億円、営業利益で70億円にのぼる。
けん引役として挙げられているのは、データセンター向けや半導体向けの部材、ハイエンドスマートフォン向け部材の需要増、そして円安である。HDD向けの回路基板もその中に含まれている。
| 2027年3月期 通期見通し | 従来予想 | 修正後 |
|---|---|---|
| 売上収益 | 1兆650億円 | 1兆1,100億円 |
| 営業利益 | 1,930億円 | 2,000億円 |
| 純利益 | 1,410億円 | 1,420億円 |
ただし、この上振れがすべてHDD由来というわけではない。スマートフォンや半導体の材料も同時に伸びており、複数事業が重なった結果として読むのが妥当だろう。
回路付サスペンション基板は同社の売上全体から見れば一部にすぎない。それでも、世界のAIデータセンターの容量拡大がこの一地方の工場の稼働計画とつながっている点は、供給網の姿を考えるうえで示唆的だ。
この構造が抱えるリスク
シェア9割超という状態は、供給側にとって強みであると同時に、産業全体から見ると細い一点でもある。
まず、需要の変動をそのまま受ける。HDD市場は過去にPC向けの縮小で長い停滞期を経験しており、AIによる需要が今後どこまで続くかは見通しが難しい。生産能力を4割増やしたあとに需要が緩めば、稼働率の問題に直面する可能性はある。
技術の変わり目もある。次世代の記録方式であるHAMRが本格的に普及すれば、ヘッド周辺の構造や要求仕様は変化する。現行の作り込みがそのまま優位に働くとは限らない。
さらに、SSDとの競合も無視できない。大容量QLC SSDは消費電力の低さを武器にしており、電力が制約になっているデータセンターでは選択肢として検討されている。
そして拠点の地理的な偏りだ。亀山、ベトナム、中国という3拠点にタイの検査拠点という体制は、災害や地政学的な混乱が起きたときに世界の供給が止まりうる構造でもある。過去の東日本大震災やタイの洪水では、HDD供給網が実際に打撃を受けた。
こうした条件を踏まえると、いまの好調は与えられた前提というより、継続的な投資と技術更新によって維持されている状態と見るほうが実態に近そうだ。
よくある質問
回路付サスペンション基板とはどんな部品ですか
HDDの磁気ヘッドを支えるサスペンションの上に極細の配線を形成した部材です。ヘッドとHDD本体をつなぎ、読み書きの信号を伝えると同時に、ヘッドの姿勢を保つバネとしての機械的な役割も担っています。日東電工はCISFLEXというブランドで展開しています。
日東電工の世界シェアはどのくらいですか
回路付サスペンション基板では9割を超えるとされています。感光性ポリイミドの内製、セミアディティブ工法、ロールツーロールでの連続生産といった技術を組み合わせている点が、参入障壁になっていると見られます。
なぜ亀山が重要なのですか
日東電工の亀山事業所が1969年から操業し、この部材を約20年にわたって開発・製造してきた拠点だからです。2019年に高精度基板の新工場が完成し、翌年から量産に入っています。最先端品の立ち上げと生産技術の確立を担う位置づけと読み取れます。
シャープの亀山工場はどうなるのですか
亀山第2工場は2026年12月に生産を終える予定です。当初は8月をめどとしていましたが、顧客需要を理由に延期されました。鴻海精密工業への譲渡協議は不成立となり、1,170人規模の希望退職が募集されています。今後は亀山第1工場と白山工場に集約する方針が示されています。
AI需要はいつまで続きますか
見通しは分かれています。データセンター向けHDDは2026年分の生産枠が埋まったと伝えられる一方、HDD市場は過去に長い停滞期も経験しています。日東電工が新設と既存拠点の自動化に投資を分けているのも、この不確実性を織り込んだ設計と読めます。
まとめ
亀山という街には、対照的な二つの工場がある。
片方は国内最大級の液晶拠点として全国に名を知られ、2026年12月に火を落とす。もう片方は1969年から静かに稼働し続け、いま世界のAIインフラに必要な部材の増産に向かっている。
回路付サスペンション基板は、完成したHDDを開けなければ見えない部品だ。それでも、この1枚がなければAIが生んだデータを保管する装置は組み上がらない。
生成AIの話題はモデルの性能やGPUの争奪戦に集まりやすい。だが、その足元には日本の地方都市で20年かけて積み上げられた工程があり、それが世界の供給を左右する位置に立っている。
派手さのない部材産業をどう評価し、どう残していくのか。亀山の二つの工場は、その問いを同じ場所で並べて見せているように思える。
出典・参考
- 精密回路付き薄膜金属ベース基板 CISFLEX — 日東電工
- 導入事例:日東電工株式会社 亀山事業所様 MESソリューション — パナソニック
- 三重県亀山市での暮らし方(亀山事業所) — 日東電工 採用情報
- 企業誘致総合:日東電工株式会社 — 三重県
- 日東電工、HDD部材増産に280億円投資 — 日本経済新聞
- 日東電工、27年3月期の純利益6%増 スマホ向け製品好調で上方修正 — 日本経済新聞
- 日東電工、通期予想を上方修正 売上収益1兆1100億円 — 電波新聞デジタル
- 2027年3月期 第1四半期決算短信 — 日東電工
- シャープ亀山第2工場、鴻海への売却が不成立 — EE Times Japan
- シャープ、亀山工場の生産終了を12月に延期 — 日本経済新聞
- シャープ、亀山第2の生産終了 売却白紙、1170人の希望退職募集 — 時事ドットコム
- 統計資料(数字でみる亀山市) — 亀山市
- 市の概要 — 亀山市
- Soaring Inference AI Demand Triggers Severe Nearline HDD Shortages — TrendForce



