通知が鳴る。
三上遼太はベッドの中で、まだ目を開けないままスマホに手を伸ばした。午前六時十四分。アラームより四十六分早い。でも、通知を確認しないと眠れない種類の人間だった。
Xの通知。昨夜投稿した技術記事への反応。
「いいね」三百四十二。リポスト八十七。引用リポスト十二。
三上は薄暗い寝室で、静かに拳を握った。勝った、と思った。何に勝ったのかはわからない。
三上遼太、三十一歳。フォロワー三万二千人のエンジニアインフルエンサー。肩書きは「フルスタックエンジニア」で、都内のメガベンチャーでバックエンドを書いている。
ただし、三上を三上たらしめているのは本業ではない。Xでの技術発信だ。「今日学んだこと」シリーズ、「初心者がやりがちなミス」シリーズ、「面接で聞かれたら困る質問」シリーズ。毎日、必ず一本は投稿する。
始めたのは三年前。最初のモチベーションは純粋だった。自分が学んだことをアウトプットすれば、知識が定着する。ついでに誰かの役に立てば嬉しい。エンジニアコミュニティではよく言われることだ。「アウトプット駆動の学習」。三上もそれを信じた。
フォロワーが千人を超えたあたりで、何かが変わった。
「アウトプットすると学びが深まる」——それは嘘ではなかった。ただ、動機の比率が徐々に入れ替わっていった。学ぶためにアウトプットしているのか、いいねをもらうためにアウトプットしているのか。三上は自分に嘘をつくのが上手かったので、前者だと思い続けた。
会社ではSlackが主な戦場だ。三上が所属するチームのチャンネル「#backend-team」には、毎日何十ものメッセージが流れる。
「三上さん、このPR見てもらえますか?」
後輩の江口からメンションが飛ぶ。三上はPRを開く。コードは悪くない。でも、三上はレビューに三十分かける。細かいところまで指摘する。それが後輩のためだと思っているし、実際そうだろう。ただ、レビューしながら三上の頭の片隅では、別のことを考えている。
——このレビューの内容、Xに投稿できるな。「コードレビューで大事にしている三つのこと」。いいね、たぶん五百はいく。
三上はレビューコメントを丁寧に書きながら、同時にXの下書きにメモを残した。
誰のためのレビューなのか。江口のためか、フォロワーのためか、自分のためか。三上にはもう、その境界が見えなかった。見えなくなっていることにも、気づいていなかった。
月に一度、三上は「エンジニア勉強会」に登壇している。connpassで募集すれば、毎回百人の枠が三日で埋まる。LT(Lightning Talk)形式で、テーマは「現場で使えるTips」。
今月のテーマは「テスト設計で犯した失敗と、そこから学んだこと」。
スライドを作りながら、三上はある問題に直面した。最近、失敗していないのだ。正確には、失敗しても、すぐにXに投稿する「学びの素材」として消費してしまうので、失敗が失敗として残らない。
先週のバグは、いいねが四百八十ついた「本番障害から学んだ三つの教訓」になった。先月のチーム内の意見対立は、いいねが六百二十ついた「技術的意思決定で大切にしていること」になった。すべてが「コンテンツ」に変換される。
三上は、自分の仕事上の経験をリアルタイムで「コンテンツ化」する能力を持っている。それを「言語化力」と呼んで、フォロワーから尊敬されている。三上自身もそう思っている。
言語化力。便利な言葉だ。経験を搾り取って、いいねに変換するスキルの、もっともきれいな呼び方。
同期の木村が辞めた。三上と同じ年に入社したインフラエンジニアで、Xのアカウントは持っていなかった。フォロワーゼロ。ブログも書かない。勉強会にも行かない。
でも木村のコードは美しかった。三上が百行で書くものを、木村は四十行で書いた。設計の意図が透き通っていて、ドキュメントがなくてもコードが語っていた。
退職のSlackメッセージは短かった。「お世話になりました。次は地元で農業をやります」。リアクションは🎉と😢と🙏が並んだ。三上も🎉を押した。
三上は、木村のことを尊敬していた。でも、木村のようにはなれないとも思っていた。木村はコードだけで存在を証明できる人間だった。三上は、コードだけでは不安だった。だから言葉を書いた。言葉を書いて、いいねをもらって、自分がここにいることを確認した。
木村が辞めた日の夜、三上はXにこう投稿した。
「尊敬する同僚が旅立った。アウトプットしないけど、圧倒的にコードで語る人だった。自分はそうはなれない。だから言葉で、書き続ける」
いいね、七百三十八。リポスト百二十。引用リポスト二十五。
三上のXでの最高記録だった。
土曜日の昼下がり。三上はカフェでMacを開いている。隣のテーブルにカップルが座っている。向かいの席では大学生がレポートを書いている。三上はその光景を見ない。画面だけを見ている。
Xのアナリティクスページ。過去二十八日間のインプレッション数。フォロワーの増減。エンゲージメント率。すべてを毎日確認する。数字が上がっていれば安心し、下がっていれば不安になる。不安になると、投稿の質を上げようとする。質を上げるとは、よりバズる構成にすることだ。
カフェの窓から、夕暮れの空が見える。三上はそれに気づかない。
下書きフォルダには、三十二本の投稿が眠っている。どれも「学び」の体裁をしている。どれも、いいねの重力に引っ張られて書かれたものだ。
三上は投稿ボタンを押した。「日曜日の朝にやるべき三つのこと【エンジニアの習慣術】」
十分後、通知が鳴り始めた。三上は微笑んだ。
——俺は、書くことで学んでいる。アウトプットが最高のインプットだ。
三上はそう信じている。フォロワー三万二千人のうち、それを疑っている人はいない。三上自身を含めて。
(第3話「ユーザーは神様です」へ続く)