この記事の要点
- 新任EMの最初の90日は組織からの信頼残高を積み上げる勝負どころである
- 新任EMがつまずく典型は「プレイングを手放せない」「全方向に良い顔をする」「仕組みより個別対応」の3つだ
- Day0〜30は観察期と位置づけ、メンバー全員と60分1on1を実施することが最も投資効果が高い
- Day31〜60は信頼構築期で、システム思考への切り替えを意識する段階となる
- 順番を逆にして先に目標定義から入ると、メンバーの反発を招きやすい
新任EMがつまずく3つの原因
そもそも、なぜ新任EMはつまずくのか。よく観察される3パターンがある。
| つまずきパターン | 症状 | 根本原因 |
|---|---|---|
| プレイングを手放せない | 自分でコードを書き続ける | 短期成果への不安 |
| 全方向に良い顔をする | 上にも下にも横にも合わせる | 役割の優先順位が定義できていない |
| 仕組みより個別対応 | 1on1で全部解決しようとする | システム思考に切り替えられていない |
特に1番目の「プレイングを手放せない」問題は、技術力があるEMほど陥りやすい。コードレビューを「自分で全部やる」のは一見頼もしく見えるが、結果としてメンバーの成長機会を奪い、自分はマネジメントの本業に手が回らないという二重の損失を生む。
最初の90日は、この3パターンに陥らないための「土台づくりの期間」と捉えるとよい。
90日ロードマップの全体像
EMの仕事は、ハードスキルとソフトスキルの両輪で動く。それぞれを30日ごとに段階的に積み上げていく。
この3フェーズを順に踏むことで、「観察→信頼→設計」というEMの基本動作が身につく。順番を逆にして「いきなり目標を定義する」と、メンバーから「私たちのことを何も知らないのに」と反発を招きやすい。
Day 0〜30: 観察期にやるべき5つのこと
最初の30日は、何かを変えるよりも「知る」ことに振り切る。新任EMが信頼残高を稼ぐ第一歩は、聞く姿勢だ。
やるべきこと
| # | アクション | 目的 |
|---|---|---|
| 1 | メンバー全員と60分1on1 | 期待・不満・キャリア観の把握 |
| 2 | チームの直近6か月の振り返り資料を読む | 組織の「いま」と「過去の意思決定」を理解 |
| 3 | 上長と「自分への期待値」をすり合わせ | 評価軸を明確化 |
| 4 | 隣接チームのリーダーと顔合わせ | 横の連携ポイントを把握 |
| 5 | 自分が手放す業務リストを作る | プレイング比率を可視化 |
特に1番目の「メンバー全員と60分1on1」は、最初の30日で最も投資効果が高い。聞くべきテーマは「いま困っていること」「半年後にやりたいこと」「私(EM)に期待すること」の3つに絞る。短時間で全員と表面的に話すより、1人60分で深く聞いたほうが信頼は積み上がる。
やってはいけないこと
- 早々に組織変更を提案する
- 前任EMのやり方を無批判に否定する
- 「自分のチームらしさ」を急いで打ち出す
最初の30日に出した「方針」は、メンバーの記憶に強く残る。一度誤った旗を立てると、撤回コストが高い。
Day 31〜60: 信頼構築期に何を変えるか
メンバー全員との対話と業務理解が一巡したら、いよいよ「小さく動かす」フェーズに入る。
ここでの鉄則は、「メンバーが日常で困っていること」から手を付けることだ。経営的に重要な大ネタからではない。
例えば次のような小さな改善は、観察期に必ず候補が見えているはずだ。
- スプリントレビューが冗長で残業が常態化している → 進行を15分短縮
- 1on1の議事録が散らばっている → Notionに統一テンプレを用意
- バックログの優先順位が不明瞭 → 「今週やる/今期やる/いつかやる」の3層に整理
- ナレッジ共有が口頭依存 → 月1のドキュメントレビュー時間を新設
**「小さな改善 × 早い実行 × メンバーの声から」**の3点セットが揃うと、メンバーは「このEMは私たちの話を聞いてくれる」と認識する。
同時にこの期間で必ずやるべきは、「自分から見たメンバーへの期待値」を1on1で言語化することだ。「あなたには半年後に〇〇のロールを担ってほしい」「そのために今期はこれに集中してほしい」と具体に落とす。期待を言葉にされていないメンバーは、評価のタイミングで「思っていたのと違った」が必ず起きる。
Day 61〜90: チームを設計する
最後の30日は、チームの中長期目標と評価基準を「自分の言葉」で定義し、メンバーと合意するフェーズだ。
EMの仕事を「ドメイン」「ピープル」「プロセス」「プロダクト」の4象限で整理しておくと、抜け漏れが防げる。
| 象限 | 90日終了時の到達目標 |
|---|---|
| ドメイン(事業理解) | 自チームのKPIと、上位事業KPIへの貢献経路を1枚で説明できる |
| ピープル(人材育成) | メンバー全員のキャリア仮説と、半年〜1年の成長計画が言語化されている |
| プロセス(開発運用) | スプリント・1on1・レビューの基本リズムがチームで回っている |
| プロダクト(顧客価値) | 自チームが今期出すべきアウトカムと、その指標が合意されている |
この4象限は、EM自身の自己評価にも使える。「最近ピープルしか見られていない」「ドメインの話を上長としかしていない」など、偏りに気づきやすくなる。
そして90日の最後に、**「次の半年の旗」**をチームに対して言語化する。最初の30日で立てたら反発を招くこの「旗」も、観察と信頼構築を経た90日後ならメンバーに浸透しやすい。
新任EMが押さえる5つの原則
最後に、90日を通じて意識すべき5つの原則をまとめておく。
1. プレイングは「手放す」ではなく「移譲する」 コードを書かないことが目的ではない。書く時間を減らした分、誰がそれを担うかを設計する。
2. 評価ではなく「合意」から始める 評価面談の前に、評価基準そのものをメンバーと合意する。基準のない評価は不信を生む。
3. 1on1は「相談の場」ではなく「設計の場」 メンバーの困りごとを聞くだけでは、EMが疲弊する。「次の1か月で何に投資するか」を一緒に決める場にする。
4. 自分の上長を「リソース」として使う EMは孤独になりやすい。週1で上長と1on1を持ち、組織情報・経営方針・評価予算を引き出す。
5. 自分のメンタルを最優先で守る 新任EMの3か月は、想像以上にエネルギーを消費する。睡眠・運動・休養の3点セットを意図的に確保しないと、半年後に燃え尽きる。
結びに
エンジニアリングマネージャーの仕事は、コードを書くことではない。けれど、コードを書いてきた経験のすべてが活きる仕事でもある。
最初の90日は、新しい役割の地図を描く時間だ。地図が完璧でなくても構わない。メンバーと一緒に書き直し続けられる関係性を作ることのほうが、はるかに重要だ。
この4月にEMになったあなたは、90日後にチームと一緒にどんな景色を見ていたいだろうか。そして、そのために最初の1on1で何を聞くだろうか。
出典・参考
- Camille Fournier『The Manager's Path』(O'Reilly)
- Will Larson『An Elegant Puzzle』『Staff Engineer』
- Andrew Grove『High Output Management』
- 各社EMブログ(Mercari、LINE、SmartHR、freee、サイバーエージェント等)
国内テック企業のEM育成プログラム比較
新任EMの育成は、各社が試行錯誤を続けている領域だ。国内の代表的なテック企業がどのような型を持っているかを整理すると、自社で参考にできる要素が見えてくる。
メルカリは2020年から「EM Bootcamp」を運用し、新任EMが最初の30日で受講する集中プログラムを整備している。1on1の設計、評価フィードバックの作法、心理的安全性の作り方を、ロールプレイ形式で習得する形だ。卒業後も四半期に1度のフォローアップが組み込まれている。
LINEヤフーは、テックリードからEMへの移行期間を「EMトランジション」と呼び、6か月の準備期間を公式に設けている。この間はプレイングを段階的に手放し、現行EMの背中を見ながら徐々に責任範囲を引き継ぐ。日本企業で「EMは突然降ってくる」現実が多い中、設計された移行は珍しい。
freeeは「マネジメントトラック」と「スペシャリストトラック」を明確に分離した。EMになることが昇格ではなく職務変更であると明文化することで、「マネージャーにならないとキャリアが詰む」という不健全な圧力を制度的に解消している。
サイバーエージェントは「EMコミュニティ」を全社横断で運営し、月1回の事例共有会を新任EMの孤独感解消装置として機能させている。組織横断で愚痴と知恵を交換できる場の有無が、半年後の離職率に大きく効く。
EMダッシュボード — 自分の仕事を数値で可視化する
新任EMが見落としがちなのが、自分自身の業務をデータで把握する仕組みづくりだ。感覚値だけで動くと、上長への報告が「がんばっています」止まりになりやすい。
以下の指標を、Notion・スプレッドシート・Looker Studioなどで月次トラッキングしておくと、評価面談と組織変更時に強い武器になる。
| カテゴリ | 指標例 | 取得方法 |
|---|---|---|
| ピープル | 1on1実施数・キャリア面談実施数 | カレンダー集計 |
| プロセス | スプリント完了率・PRレビュー時間 | GitHub/Jira API |
| プロダクト | 自チームKPI達成率・障害発生数 | 事業ダッシュボード |
| ドメイン | 上長との戦略MTG時間・経営層との接点 | カレンダー集計 |
| 自己ケア | 集中作業時間・残業時間・睡眠時間 | 個人ログ |
特に「自己ケア」のレイヤーまで含めて可視化することが、新任EMの燃え尽きを防ぐ最大の防波堤になる。月末に振り返ったとき、ピープル業務が80%を占めていて自分の戦略時間がゼロだった、というケースは珍しくない。
もう一つ、メンバーから見たEMの仕事ぶりを定点観測する「逆360度サーベイ」を四半期に1度回すと、本人の自己評価とのギャップが浮かび上がる。「コミュニケーション量は十分か」「意思決定のスピードは適切か」「キャリアの相談相手として機能しているか」の3項目を5段階で聞くだけでも、データの含意は大きい。
EMから次のキャリアへ — 6か月後・1年後の選択肢
90日を乗り切った先に何があるかを描いておくと、目の前の苦しさにも意味づけがしやすい。新任EMの先には、複数のキャリアパスが開ける。
第一は、シニアEM・エンジニアリングディレクターへの昇格だ。1チーム(5〜8人)を見るEMから、複数チーム(20〜30人)を見るシニアEMへの移行が、6〜18か月後に視野に入る。求められる能力は「個別のメンバー管理」から「EMをマネジメントする力」へと一段抽象化する。
第二は、スタッフエンジニア・プリンシパルエンジニアへの戻り道だ。EMをやってみて、自分にはやはり個人の技術アウトプットが向くと判断するケースもある。Will Larsonが提唱する「スタッフエンジニアの4類型(Tech Lead/Architect/Solver/Right Hand)」は、EMからの戻り先の解像度を上げる助けになる。
第三は、VPoE・CTOへの経営層キャリアだ。複数チーム横断の経験を積んだうえで、組織設計・採用戦略・技術戦略を統合する役割に進む。スタートアップであれば、CEO直下の経営チームメンバーとして資金調達・採用ブランディングまでを担う。
第四は、独立してのコンサルティング・コーチング業だ。EM経験を持つフリーランスが、複数のスタートアップにアドバイザリーとして関わる働き方が、ここ2〜3年で急速に増えてきた。
90日は、これらの選択肢を獲得するための入り口にすぎない。最初の3か月で築いた信頼と仕組みが、次のキャリアの足場になる。
よくある質問
Q1. 最初の30日で最も優先すべきことは?
メンバー全員との60分1on1である。困っていること、半年後にやりたいこと、EMに期待することの3点に絞って深く聞く。短時間で全員と表面的に話すより信頼が積み上がる。
Q2. プレイングを手放せない時はどうするか?
自分が手放す業務リストを作り、プレイング比率を可視化する。技術力があるEMほど陥りやすい罠で、メンバーの成長機会を奪う二重の損失を生むため、意識的な切り替えが必要だ。
Q3. 早々に組織変更を提案するのはなぜダメか?
最初の30日に出した方針はメンバーの記憶に強く残り、撤回コストが高い。観察前に旗を立てると「私たちのことを何も知らないのに」と反発を招き、信頼構築が困難になる。
