「好きな人」の脳で起きていること
恋リアに夢中になる人は、出演者を「他人」として見ていない。
コミュニケーション研究者のドナルド・ホートンとリチャード・ウォールは、1956年にこの現象を「パラソーシャル関係」と名づけた。テレビの中の人物に対して、視聴者が一方向の親密さを感じる心理だ。相手はこちらを知らない。それでも脳は、友人や恋人に対するのと同じ回路で反応する。
恋リアはこの装置を極限まで研ぎ澄ましている。台本のない(とされる)会話、長い沈黙、表情のアップ。情報が「素」に近いほど、脳は相手を実在の知人として処理する。推しができる。応援する。裏切られて傷つく。すべて本物の感情だ。
では、なぜわざわざ他人の恋を観るのか。心理学者スティーブン・ライスとジェームズ・ウィルツは2004年、リアリティ番組の視聴者239人を調査し、意外な答えを出した。
最大の視聴動機は「ステータス」だった。
つまり、自分が重要な存在だと感じたい欲求である。画面の中の「普通の人」が有名になっていく。それを観ながら、視聴者は「自分もああなれる」「自分のほうがマシだ」という感覚を得る。視聴者は非視聴者より、この自己重要感への欲求が有意に強かった。
好きな人は、優しいから観ているのではない。自分の物語を、他人の画面に重ねているのだ。
「嫌いな人」は、冷たいのか
ここで多くの人が誤解する。恋リアが無理な人は、他人に興味のない冷たい人間なのだろう、と。
逆だ。
共感には二つの層がある。心理学者マーク・デイヴィスが整理した枠組みでは、ひとつは「情動的共感」、相手の感情がそのまま流れ込んでくる、もらい泣きのような反応。もうひとつは「認知的共感」、相手が何を考えているかを冷静に推し量る能力だ。
恋リアが「観ていられない」人の多くは、情動的共感が強すぎる。画面の中で誰かが気まずい思いをすると、自分のことのように苦しくなる。これは「共感性羞恥」と呼ばれ、近年の研究で実在が裏づけられている。他人の失敗やぎこちなさを見ると、まるで自分が当事者であるかのように、前頭前野や島皮質が反応してしまう。
同じ「他人の感情を感じる力」が、片方を熱狂させ、もう片方を逃げ出させる。嫌悪は共感の欠如ではない。多くの場合、共感の過剰なのだ。
冷たいから観られないのではない。痛すぎて、観られない。
私たちは、なぜ他人の恋を覗くのか
好き嫌いの手前に、もっと古い問いがある。そもそも人類は、なぜ他人の恋愛を観たがるのか。
進化心理学はひとつの仮説を持っている。「配偶者選択のコピー」だ。
スカイ・プレイスらが2010年に行った実験では、人は他人が誰を魅力的だと判断したかを観察し、自分の好みをそれに寄せる傾向を示した。動物界で広く見られる行動で、要するに「あの個体がモテているなら、優秀なはずだ」という学習である。他人の恋を観ることは、配偶者選びの低コストな予習だった可能性がある。
そこに社会心理学の古典が重なる。レオン・フェスティンガーが1954年に提唱した「社会的比較理論」。人は自分の価値を、絶対的な物差しではなく、他者との比較でしか測れない。恋リアは、容姿・会話・モテ・誠実さといった比較項目の見本市だ。観るたびに、私たちは自分を採点している。
そしてもうひとつ、見ることそのものの快楽がある。映画理論家ローラ・マルヴェイは、暗闇から他者を一方的に眺める「スコポフィリア(見る快楽)」を論じた。観られる側はこちらに気づかない。この非対称な視線にこそ、覗き見の甘い罪悪感が宿る。
| 覗き見を駆動する3つの力 | 何を満たすか | 起源 |
|---|---|---|
| 配偶者選択のコピー | 「誰が選ばれるか」の学習 | 進化心理学(Place et al.) |
| 社会的比較 | 自分の市場価値の採点 | 社会心理学(Festinger) |
| スコポフィリア | 見る快楽と安全な距離 | 映画理論(Mulvey) |
嫌いな人は、しばしばこの「採点」と「覗き」に耐えられない。他人を品定めする視線の中に、自分が他人を品定めしている事実を見てしまうからだ。
「リアル」という、最大の演出
恋リアをめぐる最大の逆説がここにある。
私たちは「リアル」を観ていると思っている。だが、画面に映るのは、何十時間もの素材を数十分に圧縮し、音楽を乗せ、順番を組み替えた、徹底的に編集された物語だ。出演者の「素の表情」でさえ、別の文脈から切り取られたものかもしれない。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、こうした「オリジナルなき複製」を「シミュラークル」と呼んだ。演出された現実が、本物の現実よりもリアルに感じられる状態。恋リアはその純粋な実例だ。
興味深いのは、好きな人ほど、それを承知で楽しんでいることだ。
物語であることと、心が動くことは矛盾しない。小説が作り話だと知っていても泣けるのと同じだ。好きな人は虚構と現実を器用に往復する。嫌いな人は「作りもの」が見えた瞬間に、感情の供給を止める。
リアルかどうかは、実は本質ではない。問われているのは、虚構を受け入れる構えがあるかどうかだ。
視線が暴くのは、出演者か、自分か
最後に、もっとも哲学的な層に降りる。
哲学者ジャン=ポール・サルトルは『存在と無』で「眼差し」を論じた。他者に見られた瞬間、人は「見る主体」から「見られる客体」に転落する。鍵穴を覗いていた人間が、背後の足音に気づいて凍りつくあの感覚だ。覗いている自分が、突然、誰かに覗かれる。
恋リアの視聴体験には、この眼差しの構造が二重に折りたたまれている。
私たちは出演者を一方的に眺める。安全な暗闇から、品定めし、応援し、断罪する。だが優れた恋リアは、ある瞬間、その視線を反転させる。「あなたなら、どうする?」と。出演者の選択に苛立つとき、私たちは自分の恋愛観、嫉妬、見栄を画面に投影している。
好きな人は、その反転を娯楽として味わう。自分が試される感覚ごと、楽しんでいる。
嫌いな人は、その反転を本能的に避ける。他人の恋を覗くという行為が、自分の何かを暴いてしまうことを、どこかで知っているからかもしれない。
だとすれば、「恋リアが好きか嫌いか」という問いは、番組への評価ではない。自分の心の、どこまでを画面に差し出せるか。その距離の測り方の、名前なのだ。
あなたが次にあの画面を閉じるとき、観るのをやめたのは番組だろうか。それとも、映りこんだ自分のほうだろうか。
出典・参考
- Reiss, S., & Wiltz, J. (2004). Why People Watch Reality TV. Media Psychology, 6(4), 363–378.
- Horton, D., & Wohl, R. R. (1956). Mass Communication and Para-Social Interaction. Psychiatry, 19(3), 215–229.
- Davis, M. H. (1983). Measuring individual differences in empathy: Interpersonal Reactivity Index. Journal of Personality and Social Psychology, 44(1), 113–126.
- Festinger, L. (1954). A Theory of Social Comparison Processes. Human Relations, 7(2), 117–140.
- Place, S. S., Todd, P. M., Penke, L., & Asendorpf, J. B. (2010). Humans show mate copying after observing real mate choices. Evolution and Human Behavior, 31(5), 320–325.
- Mulvey, L. (1975). Visual Pleasure and Narrative Cinema. Screen, 16(3), 6–18.
- Sartre, J.-P. (1943). L'Être et le néant(存在と無).
- Baudrillard, J. (1981). Simulacres et Simulation(シミュラークルとシミュレーション).

