チューリング賞受賞者にして「ディープラーニングの父」の一人、ヤン・ルカン。12年間にわたりMetaのAI研究を率いた男が、2025年末に退社し、パリで新会社AMI Labs(Advanced Machine Intelligence Labs)を立ち上げた。そして2026年3月、そのAMI Labsが欧州史上最大のシードラウンドとなる10.3億ドル(約1,550億円)の資金調達を発表した。
ルカンの主張はシンプルで、過激だ。「LLMは統計的な錯覚にすぎない。印象的だが、知的ではない」──業界の常識に真っ向から挑むこの賭けの全貌を読み解く。
なぜ今、MetaのAI責任者が「辞める」のか
ヤン・ルカンは2013年にFacebookに招かれ、AI研究所「FAIR」を設立。以来、同社のAI戦略を技術面から支え続けてきた。チーフAIサイエンティストとして、LLaMAシリーズの基盤研究にも関わった人物だ。
そのルカンが2025年11月にMeta退社を発表した。その理由をルカン自身はこう語っている。
- MetaはAI研究では成功したが、研究成果の商業化には苦戦していた
- FAIRのロボティクスグループの解散は戦略的な誤りだったと考えている
- LLMはすでに「研究対象」ではなく「製品」であり、学術的な探求の余地は限られている
つまり、ルカンの目には「LLMの改良競争」はもはや科学ではなく、エンジニアリングの最適化問題に映っている。そして彼が本当にやりたいのは、LLMとはまったく異なるパラダイムの研究だった。
ルカンの持論──「LLMは間違った道を進んでいる」
ルカンがAI業界で「異端児」と呼ばれる所以は、LLMに対する一貫した批判にある。
| ルカンの主張 | LLM推進派の反論 |
|---|---|
| LLMは「次の単語を予測する」統計モデルにすぎない | スケーリングにより創発的能力が生まれている |
| テキストだけで世界を理解することは原理的に不可能 | マルチモーダル化で視覚・音声も統合済み |
| ハルシネーション(幻覚)はアーキテクチャの本質的欠陥 | RLHF・検索拡張(RAG)で大幅改善 |
| 人間や動物は言語なしで世界を理解する。AIもそうあるべき | 言語は思考の最も効率的なインターフェース |
| 現在のLLMを10倍にしても「知能」は生まれない | GPT-4→o1→o3の性能向上が反証 |
業界がChatGPT・Claude・Geminiの競争に熱狂する中で、ルカンは一貫して「業界全体が間違った方向に進んでいる」と主張し続けてきた。そして今、その主張に10億ドルの裏づけがついた。
「世界モデル」とは何か──JEPAアーキテクチャの核心
ルカンがLLMの代わりに提唱するのが「世界モデル(World Model)」だ。人間や動物が言語なしに物理世界を理解するように、AIにも現実世界の因果関係や物理法則を学ばせるアプローチを指す。
その技術的基盤が、2022年にルカンが発表したJEPA(Joint Embedding Predictive Architecture)だ。
| 比較項目 | LLM(Transformerベース) | JEPA(世界モデル) |
|---|---|---|
| 学習方法 | 次のトークン(単語)を予測 | 抽象的な表現空間で未来を予測 |
| 入力 | テキスト(+画像・音声) | 現実世界のセンサーデータ、映像、物理シミュレーション |
| 予測対象 | ピクセル・単語レベルの詳細 | 表面的なノイズを無視した「概念レベル」の変化 |
| 強み | 言語タスクに圧倒的 | 物理的な因果推論、ロボット制御、空間認識 |
| 弱み | ハルシネーション、物理世界の理解が弱い | まだ研究段階、大規模な実証がない |
| 例え | 膨大な量の本を読んだ人 | 目が見え、手で触れ、世界を歩き回った人 |
JEPAの核心は「予測の粒度」にある。LLMがピクセルやトークンレベルで逐一予測するのに対し、JEPAは予測不可能な表面的ディテールを無視し、抽象的な概念レベルで将来の状態を予測する。これは人間の認知に近いとルカンは主張する。たとえば、ボールを投げたとき、私たちはボールの回転の細部までは予測しない。しかし「だいたいどこに落ちるか」は瞬時にわかる。JEPAが目指すのは、まさにそのレベルの理解だ。
10.3億ドルの布陣──史上最大のシードラウンド
AMI Labsが調達した10.3億ドル(約8.9億ユーロ)は、欧州スタートアップとして史上最大のシードラウンドだ。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 調達額 | 10.3億ドル(約1,550億円) |
| プレマネーバリュエーション | 35億ドル(約5,250億円) |
| ラウンド | シード |
| 本社 | パリ |
| 設立からの期間 | 約4カ月 |
投資家の顔ぶれも異例の豪華さだ。
| カテゴリ | 投資家 |
|---|---|
| 共同リード | Cathay Innovation、Greycroft、Hiro Capital、HV Capital、Bezos Expeditions |
| テック大手 | Nvidia、Samsung、Toyota Ventures |
| 政府系ファンド | Temasek(シンガポール) |
| 著名個人投資家 | ティム・バーナーズ=リー、エリック・シュミット、マーク・キューバン |
| フランス企業 | Groupe Industriel Marcel Dassault、Publicis Groupe |
NvidiaとToyotaが投資していることは、AMI Labsの技術がGPUインフラとロボティクス(自動車含む)の両面で注目されていることを示している。
経営チーム──研究者と事業家の融合
AMI Labsの布陣は、純粋なAI研究所ではない。事業化を見据えたプロフェッショナルが揃っている。
| 役職 | 氏名 | 経歴 |
|---|---|---|
| エグゼクティブチェアマン | ヤン・ルカン | チューリング賞受賞者、元Meta FAIR所長、NYU教授 |
| CEO | アレクサンドル・ルブラン | Nabla創業者(医療AIスタートアップ) |
| VP World Models | マイケル・ラバット | 世界モデル研究の専門家 |
| COO | ローラン・ソリー | 事業運営責任者 |
| Chief Research & Innovation Officer | パスカル・ファン | AI研究・イノベーション統括 |
| Chief Science Officer | サイニン・シェ | 科学技術責任者 |
ルカンが技術ビジョンを示し、ルブランが事業化を推進する。この役割分担は、研究の商業化に苦戦したMetaでの反省が反映されているのかもしれない。
AMI Labsのロードマップ
AMI Labsが掲げるタイムラインを整理する。
| 時期 | マイルストーン |
|---|---|
| 2026年(1年目) | 研究フェーズ。世界モデルの基盤技術を確立 |
| 1〜2年後 | 企業パートナーシップの構築開始 |
| 3〜5年後 | 「かなり汎用的な知的システム」を複数ドメインに展開 |
| 長期目標 | 「知的システムの主要プロバイダー」になる |
現時点でAMI Labsにはプロダクトも売上もない。ルカン自身、最初の1年は完全に研究に集中すると明言している。投資家が買っているのは技術ではなく、ルカンの「ビジョン」と「信頼性」だ。
欧州AI主権の旗手──なぜパリなのか
AMI Labsがシリコンバレーではなくパリに本社を置いたことにも意味がある。
ルカンはAMI Labsを「米中AI二強体制への第三の道」と位置づけている。
- オープンソース開発を推進し、各国が自国の言語・価値観に合わせたAIを構築できる基盤を提供する
- AIの主権(ソブリンAI)を重視する各国政府のニーズに応える
- フランスの強力なAI研究人材プール(エコール・ポリテクニーク、INRIAなど)を活用する
Mistral AIに続き、AMI Labsの登場は「欧州発のAIスタートアップ」が世界的なプレゼンスを確立しつつあることを示している。
正しいのは誰か──10億ドルの問い
率直に言えば、ルカンの賭けが成功するかどうかはわからない。
世界モデルは長期的な科学研究であり、短期間で成果が出る類のものではない。LLMが現実に驚異的な実用性を示している中で、「LLMは間違い」という主張は今のところ少数派だ。「問題を正しく指摘できること」と「問題を解決できること」は別物であり、10億ドルがあっても基礎研究のブレイクスルーは保証されない。
しかし、科学の歴史は「常識に逆らった者」が正しかった事例に満ちている。ディープラーニングそのものが、かつて「AI研究の主流」から外れた異端のアプローチだった。そしてそのディープラーニングの隆盛を導いた3人のうちの1人が、今度は業界の主流に反旗を翻している。
LLMのスケーリングが正解なのか、それとも世界モデルという別の道が必要なのか。この問いに対する答えは、おそらく5年後に明らかになる。10億ドルを賭けた「異端の科学者」の挑戦は、AI史における最大の分岐点になるかもしれない。
出典・参考
- TechCrunch「Yann LeCun's AMI Labs raises 1.03B to build world models」(2026年3月9日)https://techcrunch.com/2026/03/09/yann-lecuns-ami-labs-raises-1-03-billion-to-build-world-models/
- Bloomberg「Yann LeCun's New AI Startup Raises 1 Billion in Seed Funding」(2026年3月10日)
- MIT Technology Review日本版「LLMは研究の対象ではない AI界の異端児ヤン・ルカン 新会社設立の狙いを語る」(2026年1月)https://www.technologyreview.jp/s/376613/yann-lecuns-new-venture-is-a-contrarian-bet-against-large-language-models/
- The Next Web「Yann LeCun just raised 1bn to prove the AI industry has got it wrong」(2026年3月)https://thenextweb.com/news/yann-lecun-ami-labs-world-models-billion
- Dataconomy「Yann LeCun's AMI Labs Hits 3.5 Billion Pre-money Valuation」(2026年3月10日)https://dataconomy.com/2026/03/10/yann-lecuns-ami-labs-hits-3-5-billion-pre-money-valuation/

