72%——見て見ぬふりをされてきた数字
スタートアップの世界は、成功物語で彩られている。 ガレージから始まり、世界を変え、巨万の富を築いた起業家たち。 メディアが好んで描くその物語の裏側に、語られない現実がある。
米国の調査機関National Institute of Mental Healthが2024年に発表した報告によれば、スタートアップ創業者の72%がメンタルヘルスの問題を経験している。 うつ、不安障害、燃え尽き症候群——一般人口と比較して、はるかに高い割合だ。
だが、この数字が広く議論されることはほとんどない。 なぜか。
創業者が「つらい」と言うことは、投資家への不安材料になり、チームの士気を下げ、採用に悪影響を及ぼすと考えられてきた。 だから、黙る。 笑顔でピッチし、成長率を語り、ビジョンを熱く説く。 その裏で、夜中に一人で不安と向き合っている。
「強い創業者」の神話が生む構造的問題
スタートアップ文化には、「創業者は強くあるべきだ」という暗黙の規範がある。 ハードシングスを乗り越えてこそ起業家だ。弱音を吐くのはコミットメントが足りない証拠だ。 そんな空気が、業界全体に染み渡っている。
Ben Horowitzの名著『HARD THINGS』は多くの創業者のバイブルとなった。 あの本が描くのは、幾多の危機を歯を食いしばって乗り越えるCEOの姿だ。 だが、その「歯を食いしばる」ことの代償について、十分に語られてきただろうか。
Brad Feld(Foundry Group共同創業者)は、自身のうつ病との闘いを公表した数少ないVC/起業家の一人だ。 2013年のブログ記事「Entrepreneurial Life Shouldn't Be This Way」は大きな反響を呼んだ。 だがそれから13年以上が経った今でも、創業者のメンタルヘルスは業界のタブーに近い位置にある。
「投資家に『最近つらい』と言えますか? 答えがNoなら、それ自体が問題です」——あるシリーズA創業者の匿名インタビューより
創業者のメンタルを蝕む5つの要因
創業者がメンタルヘルスの問題を抱えやすいのには、構造的な理由がある。 単に「仕事がきつい」では片付けられない、特有のストレス要因が存在する。
1. 不確実性の持続
会社員であれば、たとえ仕事が大変でも「来月の給与は振り込まれる」という安心感がある。 創業者にはそれがない。 資金調達の成否、顧客の獲得、プロダクトの成功——すべてが不確実だ。 この不確実性が、数カ月、数年と持続するのが創業者の日常だ。
人間の脳は、不確実性を最も苦手とする。 結果が「悪い」のはまだ対処できる。 だが「わからない」状態が長引くと、慢性的な不安が蓄積する。
2. アイデンティティの同一化
創業者にとって、自分と会社の境界線は限りなく曖昧だ。 会社の失敗は自分の失敗であり、プロダクトの否定は自分自身の否定に感じられる。 このアイデンティティの同一化が、ストレスを人格レベルにまで深刻化させる。
「今日、投資家からNoと言われた」。 サラリーマンなら「会社の案件が流れた」で済む。 だが創業者にとっては「自分の人生を賭けたビジョンが否定された」という体験になる。
3. 孤独のポジション
CEOという役職は、組織の中で最も孤独なポジションだ。 チームメンバーには弱みを見せられない。 投資家には成長ストーリーを語り続けなければならない。 家族にはスタートアップの世界特有の悩みが伝わりにくい。
「誰にも本音を言えない」。 この状況が長く続くと、精神的な消耗が加速する。
4. 睡眠の慢性的な不足
スタートアップ文化では、長時間労働が暗黙のうちに称揚されてきた。 「起業家は寝てはいけない」とまでは言わないにせよ、「Sleep is for the weak」的な価値観は今も根強い。
だが睡眠不足がメンタルヘルスに与える影響は深刻だ。 認知機能の低下、感情制御の困難、意思決定の質の劣化。 睡眠を削って働くことは、長期的には会社のパフォーマンスも下げる悪循環を生む。
5. 比較と競争の圧力
SNS時代のスタートアップ創業者は、他の創業者の成功を日常的に目にする。 XのタイムラインにはMRRの成長報告が並び、TechCrunchにはライバルの資金調達ニュースが流れる。
自分のペースで事業を進めているはずなのに、他者の成功が心理的なプレッシャーになる。 「あの人はもう1億調達した」「あのプロダクトはもうPMFした」。 比較は止められない。そして、比較するたびに自己評価が下がる。
日本のスタートアップ界隈——語られない苦悩
日本のスタートアップ界隈では、メンタルヘルスの議論はさらに遅れている。
日本には「精神的な問題を他人に話すのは恥ずかしい」という文化的バイアスが根強く残っている。 スタートアップの文脈に限った話ではないが、「強い起業家」の規範と日本的な「弱みを見せない」文化が重なると、問題はより深刻になる。
ある日本のシリーズB創業者に匿名で話を聞いた。
「VCの前では常に『順調です』と言い続けた。チームの前でも同じ。でも実際は、半年間ほぼ毎日、朝起きるのがつらかった。それを誰にも言えなかった。創業者仲間に相談しようかと思ったけど、『弱いやつだ』と思われるのが怖くて」
この証言は、決して例外的なものではない。 筆者が取材した複数の創業者が、似たような経験を語った。 共通しているのは「誰にも言えなかった」という一言だ。
変わり始めた意識——対策の最前線
ただ、状況は少しずつ変わりつつある。 創業者のメンタルヘルスに正面から取り組む動きが、国内外で広がっている。
エグゼクティブコーチングの普及
シリコンバレーでは、シリーズA以降の創業者にエグゼクティブコーチを付けることが一般的になりつつある。 コーチは経営アドバイスだけでなく、創業者の内面的な課題——ストレスマネジメント、意思決定の不安、孤独感——にも向き合う。 日本でもreapra(リアプラ)のような起業家支援組織が、コーチングを創業者支援に組み込み始めている。
ピアサポートネットワーク
創業者同士が定期的に集まり、事業の課題だけでなく個人的な悩みも共有するピアグループが注目されている。 米国のYPO(Young Presidents' Organization)や、日本のFounder's Circle的な非公開コミュニティがその例だ。 「同じ立場の人にしかわからない」苦悩を分かち合える場の価値は大きい。
VCの姿勢の変化
一部のVCが、投資先の創業者のメンタルヘルスを支援する取り組みを始めた。 Andreessen Horowitzはポートフォリオ企業の創業者向けに、メンタルヘルスのリソースを提供している。 日本のVCでも、投資先創業者にカウンセリング費用を福利厚生として提供する例が出始めている。
ここにはVCの合理的な計算もある。 創業者が精神的に崩れれば、投資先の事業価値も毀損する。 創業者のメンタルヘルスは、投資リターンに直結する問題だ。
EAP(従業員支援プログラム)の創業者版
大企業では従業員向けのメンタルヘルス支援(EAP)が普及しているが、スタートアップの創業者は「従業員」ではないため、これらの支援からは外れる。 この穴を埋めるサービスが登場し始めた。
米国のModern Healthは、スタートアップ向けにカスタマイズしたメンタルヘルスプラットフォームを提供している。 日本でもcotree(コトリー)やmezameのようなオンラインカウンセリングサービスが、創業者向けのプランを模索中だ。
投資家に求められる役割
創業者のメンタルヘルスに対して、投資家は傍観者でいてはいけない。
VCは取締役会でKPIとバーンレートの話をする。 だが、創業者の心理状態について問いかけるVCは、まだ少数派だ。 「最近、眠れてますか」と聞くことが、MRRの確認と同じくらい重要だという認識が必要だ。
これは「優しさ」の話ではない。リスクマネジメントだ。
創業者がバーンアウトすれば、企業は存続の危機に陥る。 創業者の判断力が低下すれば、ピボットのタイミングを見誤る。 メンタルヘルスの問題は、事業リスクそのものだ。
先進的なVCは、投資契約にメンタルヘルスサポートを組み込み始めている。 月額のカウンセリング費用を経費として認める、四半期に一度の「ウェルビーイング面談」を設定する。 こうした取り組みが、投資のスタンダードになっていくことが望ましい。
沈黙を破るために
スタートアップ創業者のメンタルヘルスは、個人の問題ではない。 業界の構造的な問題だ。
「強い創業者であれ」という神話を維持することで、誰が得をするのか。 燃え尽きた創業者を使い捨てにして、次の「強い」起業家を探す——そのサイクルは、エコシステム全体の損失だ。
変化のためにできることは、実はシンプルだ。
- 創業者が「つらい」と言える場をつくること
- 弱さを見せることを「失格」ではなく「成熟」と捉える文化を育てること
- 投資家がメンタルヘルスを事業KPIの一部として認識すること
- 予防的なケア(コーチング、カウンセリング、ピアサポート)を当たり前にすること
Brad Feldは著書『Startup Life』でこう書いている。
「起業家精神は、人生を犠牲にして事業を成長させることではない。持続可能な形で情熱を追い続けることだ」
持続可能な起業。 それは、創業者自身の心身が持続可能であることから始まる。
この記事を読んでいるあなたが創業者なら、一つだけ問いたい。 最後に、誰かに本音を話したのはいつだったか。 もしそれが思い出せないなら、今日がその日であっていいはずだ。
