「お気持ちは十分に理解しております」
加藤楓は、自分の声が完璧に柔らかいことを確認しながら、そう言った。Google Meetの画面越しに、相手の顔が歪んでいる。額に汗が浮いている。経理部長の山下さん、五十二歳。導入して三ヶ月の経費精算SaaS「Clarify」の使い方がわからないと、今朝Intercomから怒りのチャットを送ってきた人だ。
「わかってないよ、あなたは。うちの経理がどれだけ大変か——」
「はい、おっしゃる通りです」
楓の声には一ミリの揺らぎもない。声だけではない。表情も、姿勢も、呼吸のリズムも、すべてが「共感と誠実さ」を表現するように設計されている。
楓は二十六歳。カスタマーサクセスという肩書きで「Clarify」を運営するスタートアップに入社して一年半。月間三十社のクライアントを担当し、オンボーディングからリテンションまでを一人で回している。
「ユーザーに寄り添うこと」が、この仕事の核心だと最初に教わった。楓はそれを、文字通り実践した。
朝九時。Slackの「#cs-team」チャンネルを開く。昨夜の間にIntercomに溜まったチャット。十二件。うち三件が「至急」マーク。
楓はNotionの「対応テンプレート」を開く。お怒りの場合はテンプレートA。困惑の場合はテンプレートB。要望の場合はテンプレートC。テンプレートをそのまま使うわけではない。そこに「人間味」を加える。相手の会社名を入れる。前回の会話の内容に触れる。季節の挨拶を添える。
人間味。それもまた、設計されたものだ。
十時、最初のMeet。食品メーカーの経理担当者。穏やかな人で、質問も整理されている。楓は笑顔で対応する。「それ、すごくいい質問ですね!」——このフレーズを楓は一日に平均八回使う。数えたことがある。
十一時、二本目のMeet。広告代理店のマネージャー。こちらは怒っている。レポートの数字が合わないと言う。楓は調べる。実際にはユーザー側の入力ミスだ。でも、「入力ミスですね」とは言わない。「こちらのUIがわかりにくかったかもしれません。改善を検討させていただきますね」と言う。
嘘ではない。UIは確かにわかりにくい。ただ、今回の問題の原因はUIではなく、相手が数字を見間違えただけだ。
楓にとって、「正しいこと」と「言うべきこと」は別の座標軸にある。
昼休み、楓はオフィスのトイレの個室に入る。便座の蓋を下ろして座り、五分間だけ「何も演じない時間」をとる。
ここでは共感しなくていい。微笑まなくていい。「おっしゃる通りです」と言わなくていい。
楓は目を閉じる。自分の感情を探す。怒り? いや、怒ってはいない。悲しみ? それでもない。疲労? たぶん。でも、もっと正確に言えば——
空白。
感情がない、というのではない。感情のチャンネルが、仕事用と私用で分かれていて、仕事用を切った瞬間に私用チャンネルに何も流れていないことに気づく、あの感覚。テレビのチャンネルを変えたら砂嵐だった、という感じに近い。
五分が経つ。楓はトイレを出る。鏡の前で笑顔を作る。口角を上げ、目を細め、頬を少し持ち上げる。完璧だ。楓は自分の笑顔が美しいことを知っている。そしてそれが、筋肉の運動であることも。
午後三時。Slackに上司の広田さんからDMが来る。
「楓ちゃん、例のA社のリテンション、今月末が期限なんだけど、状況どう?」
A社は、解約しそうなクライアントだ。導入から六ヶ月、利用率が月を追うごとに下がっている。楓は毎週のように先方の担当者にメールを送り、活用事例を提案し、追加のオンボーディングセッションを開き、Loomで使い方動画を撮って送っている。
でも、本当のことを言えば、A社にとって「Clarify」は合っていない。会社の規模が小さすぎる。Excelで十分だ。楓にはそれがわかっている。半年前から。
「順調です!先方の反応もポジティブで、今週もう一度セッションを組んでます😊」
楓はそう返した。広田さんに向けるのと、クライアントに向けるのと、同じ種類の共感と誠実さ。社内も社外も、楓のペルソナは一つしかない。いや——ペルソナしかない、と言うべきかもしれない。
金曜の夜。大学時代の友人、美咲とLINEで通話する。
「楓、仕事どう? 相変わらず忙しい?」
「うん、でもやりがいあるよ。お客さんの課題を解決できた瞬間が——」
楓は自分の声を聞いて、止まった。
これは誰の言葉だ? 自分の言葉か? Wantedlyのプロフィールに書いた言葉か? 社内の1on1で上司に言った言葉か? 面接で使った言葉か?
「——楓?」
「あ、ごめん。うん、元気だよ」
「なんか最近、楓って話し方変わったよね」
「え?」
「なんていうか、丁寧すぎる? 私相手にまで。昔はもっと雑だったじゃん」
楓は笑った。笑い方が自然だったかどうかは、もうわからない。
土曜日、楓は一人で近所のスーパーに買い物に行った。レジで店員に「袋いりますか?」と聞かれたとき、楓は反射的にこう答えた。
「大丈夫です、ありがとうございます。いつも助かっています」
店員は一瞬きょとんとして、それから「はあ」と言った。
楓は自分がカスタマーサクセスの口調でスーパーの店員に話しかけていることに気づいた。気づいて、少し怖くなった。
でもその恐怖は、月曜の朝にはもう消えていた。九時にSlackを開き、Intercomのチャットを確認し、Notionのテンプレートを開いた瞬間に、楓のペルソナは完全に立ち上がった。
「おはようございます!本日もどうぞよろしくお願いいたします😊」
楓の笑顔は今日も完璧だった。そしてそれが、いつから本物だったのかを、楓はもう覚えていなかった。
(第4話「β版の夢」へ続く)
