「うちの会社、ほんとにいい人しかいないんですよ」
水沢真帆は、そう言いながらカメラに向かって微笑んだ。撮影用のリングライトが頬骨の影をきれいに消している。Notionに書いておいた台本を、台本に見えない程度にちらちらと確認しながら。
採用広報の動画だ。BtoBのSaaS企業「Connex」の採用チャンネルに上げる、社員インタビュー形式のコンテンツ。真帆はその企画・撮影・編集・投稿のすべてを一人でやっている。タイトルは「Connexで働くリアル」。
リアル、という言葉を使うたびに、胃のあたりが少しだけ重くなる。
「真帆さん、これ、後半のところちょっと言い直していいですか?」
カメラの前に座っているのは、開発部の田所さん。入社二年目のバックエンドエンジニアで、社内Slackでは猫のスタンプばかり押している温厚な人だ。さっきまで「プロダクトに対する想い」を熱く語ってくれていた。台本通りに。
「もちろんです。じゃあ『チームの雰囲気について』のところからもう一回いきましょうか」
田所さんは頷いて、台本に視線を落とした。Notionのリンクは真帆が事前にSlackで送っておいた。「こういう方向性で話してもらえると嬉しいです」という添え書きとともに。
嘘は言っていない、と真帆は思う。方向性を提示しているだけだ。田所さんの言葉を借りているだけ。田所さんだって、本心から会社のことが好きだと思っている。たぶん。
Connexは社員数八十人、シリーズBの調達を終えたばかりのスタートアップだ。プロダクトは法人向けのプロジェクト管理ツール。ARR十二億円。成長率は前年比で百四十パーセント。数字だけ見れば、上り調子の優良スタートアップに見える。
真帆はこの会社に二年前、「広報担当」として入社した。社長の宮本さんとWantedlyで繋がったのがきっかけだった。面接で宮本さんは、「採用が全てだと思ってる」と言った。「いい人が来れば、いいプロダクトができる。いいプロダクトができれば、いい会社になる。そのサイクルの起点を任せたい」
真帆はその言葉に、本気で感動した。少なくとも、そう記憶している。
入社してすぐ、真帆は違和感に気づいた。それは「嘘」というほど明確なものではなく、「省略」と呼ぶべきもの。
社員インタビューでは、退職した人の話は絶対に出さない。組織課題について聞かれたら、「成長痛」という言葉に変換する。福利厚生の質問には制度のリストを見せるが、それを実際に使っている人の割合は言わない。年間休日は百二十日と書くが、土日にSlackが飛ぶ頻度には触れない。
省略。省略。省略。
嘘はついていない。ただ、真実の一部だけを選んで並べている。
最初の三ヶ月は、それを「仕方ない」と思った。半年経つと「仕事だから」に変わった。一年経った頃には、もう何も思わなくなっていた。
夜、自宅のワンルームで、編集ソフトを立ち上げる。田所さんのインタビュー映像を並べ替えていく。
「チームの雰囲気は最高です。何でも言い合える関係で——」
テイク三のこの部分がいい。田所さんの表情がもっとも自然に見える。テイク一は緊張していて、テイク二は台本を読んでいる感が強い。テイク三は、田所さんが台本を自分の言葉だと思い込み始めたテイク。もっともリアルに見える。
リアルに見える、というのが大事だ。リアルであることではなく。
編集が終わり、YouTubeにアップロードしながら、Xを開く。タイムラインには、他社の採用広報担当者たちの投稿が並んでいる。
「当社の文化をもっと多くの方に届けたい!」「社員の声が、一番の採用コンテンツ」「入社エントリ書きました!」
全員が同じことを言っている。同じ構造で、同じ方法で、同じ省略をしながら。誰もそれを嘘だと思っていない。いや、思っていないのか、思わないようにしているのか、思うことをやめたのか——真帆にはもう、その区別がつかなかった。
翌週、真帆は全社会議に参加した。宮本さんがスライドを映しながら話している。
「今期の社員満足度調査の結果は——正直、課題があります。スコアがマイナス十二。業界平均を下回っています」
会議室が静まった。真帆は手元のMacを見つめた。先週、Xに投稿したばかりだ。「Connexの社員満足度の秘密」というカルーセル画像。そこには社内アンケートの結果から「ポジティブな回答」だけを抜き出したグラフが載っている。いいねは百二十。リポストは三十四。
宮本さんが続ける。「でも、これは僕たちが正直に向き合っている証拠でもある。課題を見つけられる組織は強い。ここから良くしていこう」
真帆はその言葉をメモした。来週のnote記事のネタになる。タイトルは「組織課題に正面から向き合うカルチャー」——そう、こうすれば満足度スコアのマイナスすらポジティブなコンテンツに変換できる。課題があること自体を、強さの証明に変えられる。
自分でも驚くほど、自然にそう考えていた。
金曜日の夜、大学時代の友人、千尋と渋谷で飲んだ。千尋はメーカーの経理部で働いている。
「真帆の会社、Xでめっちゃ見るよ。楽しそうだよね」
「うん、実際いい会社だよ」
「転職しようかな、私も。経理って地味だしさ」
真帆はレモンサワーを飲みながら、少し間を置いた。
「——いい会社だよ。ほんとに」
嘘ではない。嘘ではないはずだった。真帆は本気でそう思っている。Connexにはいい人がいる。プロダクトは伸びている。経営者はビジョナリーだ。土日にSlackは飛ぶけれど、それは皆がプロダクトを愛しているから。満足度スコアがマイナスなのは、組織が成長している証拠。退職者が多いのは、スタートアップならではの新陳代謝。
全部、自分が書いたコピーだ。
千尋が「応募してみようかな」と笑ったとき、真帆の胃のあたりが、またほんの少しだけ重くなった。
でもそれは、レモンサワーの飲みすぎかもしれない。真帆はそう判断して、もう一杯を注文した。
月曜の朝、真帆はいつも通りMacを開き、Slackのステータスを「本日も元気に稼働中!」に設定し、Notionで今週の採用コンテンツカレンダーを確認し、Xを開いて「#採用広報」で検索し、業界のトレンドをチェックし、田所さんのインタビュー動画の再生数を確認し(二百四十回、まあまあだ)、そしてカメラの前に座る次の社員にDMを送った。
「お忙しいところすみません!来週、社員インタビューの撮影をお願いできませんか?テーマは『Connexで成長できた瞬間』です。事前に方向性のメモをお送りしますね😊」
返信はすぐに来た。「もちろんです!楽しみです!」
真帆は微笑んだ。それから、ほんの一瞬だけ、自分がいま微笑んでいることに気づいた。
——これは、台本通りの笑顔だろうか。
考える前に、次のDMを打ち始めていた。
(第2話「いいねの重力」へ続く)