数字が回っている。
岡田拓海は、Google Analyticsのリアルタイムパネルを凝視していた。同時接続四千三百人。ページビューが一分ごとに跳ね上がっていく。Xのトレンドに入った。はてなブックマークが百を超えた。Slackの「#content-metrics」チャンネルが鳴り続けている。
バズった。
岡田拓海、二十七歳。テック系メディア「Vektor」の編集者。入社三年目。今朝公開した記事「GPT-5はプログラマーを殺すのか——現役エンジニア100人に聞いた本音」が、午前中に十万PVを超えた。
記事の内容は——正直に言えば、拓海自身もよくわかっていない。百人にアンケートを取ったのは本当だ。だが、回答の集計方法にはいくつかの「選択」があった。「AIに仕事を奪われる不安がある」と答えた人の割合を、見出しではやや誇張気味に表現した。「懸念がある」を「恐怖」に、「変化が必要」を「危機感」に、言葉を差し替えた。
嘘ではない。ただ、温度を上げた。
Vektorは月間三百万PVのテック系メディアだ。収益の大半は記事広告とアフィリエイト。編集部は六人。少数精鋭——と言えば聞こえはいいが、実態は一人あたりの記事本数がおかしいことになっている。月に十五本。うち三本は取材記事、五本はニュース、七本はSEO記事。
拓海がこの仕事を始めたのは、「テクノロジーで世界がどう変わるかを伝えたい」と思ったからだ。大学時代に読んだWIREDに憧れて、メディア業界に入った。テクノロジーの本質を、深く、正確に、美しい文章で伝える仕事がしたかった。
入社して最初の三ヶ月で、拓海は現実を知った。
「深い記事」は読まれない。「正確な記事」より「刺激的な記事」がPVを稼ぐ。「美しい文章」よりも「SEOに最適化された見出し」の方が数字を動かす。
編集長の西野さんは、毎週月曜の編集会議でこう言う。「数字は正義じゃない。でも、数字がなければ正義を語る場所もなくなる」
拓海はその言葉を、最初は皮肉だと思った。半年後には、真理だと思った。一年後には、言い訳だと思った。二年後には——もう何も思わなくなった。
午後、Slackに西野さんからメッセージが来た。
「拓海、今日の記事すごいな。このペースだと今月のPV目標、余裕で超えるぞ」
「ありがとうございます。ちょっと見出しを攻めたのが効いたかもしれません」
「攻めた、ね。まあ、事実の範囲内だろ?」
「もちろんです」
事実の範囲内。この言葉を、拓海は週に三回は使う。事実の範囲内で温度を上げる。事実の範囲内で不安を煽る。事実の範囲内で、クリックしたくなるタイトルを作る。
境界線は、毎月少しずつ動いていた。
夜、取材の書き起こしをしながら、拓海は考える。
先週取材したAIスタートアップのCEO。三十二歳。目がぎらぎらしていて、自社のプロダクトについて四十五分間語り続けた。面白い人だった。面白い話だった。AIによる医療画像診断の精度向上。技術的にも社会的にも意義のある取り組み。
拓海はその取材を、丁寧に記事にした。技術の仕組みを正確に説明し、課題も公平に書き、CEOの人柄が伝わる構成にした。自分でも良い記事だと思った。
公開翌日のPV、八百。
同じ日に公開した「エンジニアの年収ランキング2026」は、公開三時間で二万PV。
拓海は二つの記事を見比べた。片方には三日かけた取材と執筆の時間が詰まっていて、もう片方はネット上のデータをまとめただけだった。数字は残酷なほど明確に、何が「求められているか」を教えてくれた。
金曜日の深夜、同期の編集者・松本とオンラインで飲んだ。松本は半年前に退職して、企業のオウンドメディアに転職していた。
「拓海の記事、今日もバズってたね」
「うん。十五万いった」
「すごいじゃん」
「……すごいのかな」
「何? バズったのに不満なの?」
拓海はビールを飲んだ。画面越しの松本の顔を見た。松本は楽しそうだった。企業メディアに移ってから、PVのプレッシャーがなくなったと言っていた。月に二本、じっくり取材して書く。読者は少ないけれど、クライアントが喜ぶ。それでいいと。
「松本、さ。俺たちがやりたかったことって、なんだっけ」
「——テクノロジーで世界がどう変わるかを伝えること、じゃなかった?」
「そうだった」
「今、できてないの?」
拓海は少し考えた。「できてる、と思う。たぶん。数字が取れる記事の中にも、価値のある情報は入ってるし。切り口がキャッチーなだけで、中身はちゃんとしてる」
「それ、本気で言ってる?」
拓海は答えなかった。本気かどうか、自分でもわからなかったから。
土曜日の朝。拓海は起きて、最初にスマホを確認する。
昨日の記事のPV。フォロワーの増減。はてブの新着コメント。X上での反応。
コメントのひとつが目に留まった。エンジニアらしき人の投稿。
「またVektorか。煽りタイトルで釣って、中身スカスカ。こういう記事がエンジニアの評判を下げてる」
拓海はそのポストを三回読んだ。胃が痛くなった。「中身スカスカ」——それは違う、と思った。百人にアンケートを取った。データを集計した。専門家にもコメントをもらった。スカスカではない。
ただ——スカスカではないけれど、何かが欠けていることも、拓海にはわかっていた。「温度を上げた」ぶんだけ、記事から何かが蒸発している。正確さなのか、誠実さなのか、それとも拓海自身の何かなのか。
拓海はXを閉じた。そしてMacを開き、来週の記事の企画を考え始めた。
「2026年、エンジニアが学ぶべきプログラミング言語TOP10」
タイトルを打ちながら、拓海は思った。この記事に意味はあるのか。去年も一昨年も、同じような記事を書いた。来年も書くだろう。ランキングの顔ぶれが少し変わるだけで、構造は同じだ。誰かのためになっているのか。それとも、PVという数字を回すための装置にすぎないのか。
考えるのをやめた。締め切りは月曜日だ。考えている暇はない。
拓海は書き始めた。数字が回る記事を。意味の有無は、あとで考えればいい。いつも、あとで考える。そして、いつも考えない。
(第6話「トレーニングデータ」へ続く)