欧州委員会は2026年3月17日、ヨーロッパ全27カ国で統一的に会社を設立できる新しい企業形態「EU Inc.」の提案を発表した。48時間以内、100ユーロ以下という低コストで法人を設立でき、一度の手続きでEU全域での事業運営が可能になる。現在ある27の国別法制度と60以上の企業形態を一本化することを目指す。
なぜ今、欧州スタートアップは複雑な法制度に苦しんでいるのか
ヨーロッパでスタートアップを複数の国に展開しようとすると、それぞれの国で法人を設立し、異なる法律・税制・規制に対応しなければならない。ドイツで設立した会社をフランスにも展開するだけで、数週間から数ヶ月の法的手続きと多額のコストがかかるのが現状だ。
EU Inc.はこの状況を根本的に変える試みだ。創業者は一度だけEUレベルのプラットフォームで情報を登録すれば、自動的に全27カ国で法人として認識される。税務番号やVAT番号も追加手続きなしで取得可能になる。最低資本金も不要で、完全オンライン、デジタル完結での設立を想定している。
従業員向けストックオプション(ESOP)の制度もEU全域で統一されることで、各国の法律の違いを気にせずに優秀な人材に権利付与できるようになる。スタートアップエコシステムが長年指摘してきた課題に、欧州委員会が正面から対応した形だ。
米国・英国との比較——EU Inc.はどこまで追いつけるか
EU Inc.の制度設計を理解するには、米国と英国の法人設立プロセスとの比較が有効だ。
| 項目 | EU Inc.(提案) | 米国(デラウェア州) | 英国(Companies House) |
|---|---|---|---|
| 設立にかかる時間 | 48時間以内 | 24時間以内 | 24時間以内 |
| 設立費用 | 100ユーロ以下 | 約90ドル | 約12ポンド |
| 最低資本金 | 不要 | 不要 | 不要 |
| 複数州/国での事業 | 一度の手続きで全27カ国 | 州ごとに外国法人登録が必要 | 英国内のみ |
| ESOP制度 | EU統一ルール | 州法に依存 | 企業管理投資スキーム(EMI) |
注目すべきは「一度の手続きで27カ国」という点だ。米国ではデラウェア州で法人を設立しても、カリフォルニア州やニューヨーク州で事業を行うにはそれぞれの州で外国法人登録(foreign qualification)が必要になる。EU Inc.はこの手間を完全に排除し、米国以上のシームレスさを実現しようとしている。
「28番目のレジーム」がもたらす構造的インパクト
EU Inc.は「28番目のレジーム(28th regime)」と呼ばれている。既存の27カ国の企業形態に加えて、28番目の選択肢としてEUレベルの統一形態を加えるという意味だ。
この構造は、創業者にとって明確なメリットがある。たとえば、ドイツのGmbH(有限会社)では最低資本金2万5,000ユーロが必要で、設立に公証人の関与を含め数週間かかるケースも珍しくない。フランスのSASは設立自体は比較的簡便だが、他のEU加盟国で事業を行うには別途手続きが必要になる。EU Inc.はこれらの障壁を一掃する。
投資家の観点からも、EU Inc.は魅力的だ。現行制度では、EUのスタートアップがシリーズA以降で米国のVCから調達する際、デラウェア州法人への「フリッピング」(本社移転)を求められるケースが多い。EU Inc.のESOPが統一され、投資家保護の枠組みが整えば、フリッピングの必要性は大幅に低下する可能性がある。
ただし、課題も残る。税制はEU Inc.の対象外であり、法人税率は引き続き各国の管轄だ。アイルランドの12.5%とフランスの25%という格差は温存される。租税回避的な「税率ショッピング」を防ぐ仕組みが今後の論点になるだろう。
提案の現状と今後のスケジュール
EU Inc.はあくまで「提案」の段階にある。欧州委員会が草案を示したが、欧州議会と理事会の承認を経て初めて法律として成立する。委員会は2026年末までの合意成立を目指している。
EU Inc.が実現した場合、欧州のスタートアップエコシステムにどのような変化が起きるか。最も直接的な影響は、クロスボーダーの人材獲得だ。統一されたESOPルールのもと、ベルリンのスタートアップがリスボンのエンジニアにストックオプションを付与する際の法的障壁が消える。現状では国ごとに税制上の扱いが異なるため、EU域内の人材流動性を阻害する大きな要因になっていた。
VCの投資判断にも変化が生じるだろう。デラウェア州への本社移転(フリッピング)が不要になれば、ヨーロッパに拠点を置いたまま米国VCの投資を受けることが容易になる。Index Ventures、Sequoiaなどの大手VCは欧州投資を拡大する方針を示しており、EU Inc.はその追い風になり得る。
、欧州スタートアップコミュニティからは歓迎の声が多い。一方で、労働組合からは労働基準が回避されるリスクへの懸念も示されている。委員会は既存の労働法が引き続き全面的に適用されると説明している。ドイツの共同決定制度(Mitbestimmung)や、フランスの35時間労働制といった各国固有の労働者保護も維持されるとしている。
欧州委員会は「EU Inc.は27カ国の法制度を廃止するのではなく、その上に共通の選択肢を加えるものだ」と位置づけており、既存の国内企業形態との共存を前提にしている。法案が通れば、欧州のスタートアップエコシステムは米国に一歩近づく可能性がある。
ただし、法案の成立までの道のりは平坦ではない。過去にも「欧州会社(SE)」という統一企業形態が2004年に導入されたが、複雑な設立要件や柔軟性の欠如から、利用企業は限定的にとどまった。EU Inc.がSEの轍を踏まないためには、実務的なシンプルさと各国の既存制度との摩擦を最小化する設計が不可欠だ。欧州の起業環境を根本から変えうるこの提案が、単なる理想論で終わるのか、それとも実効性のある制度として定着するのか。今後の立法プロセスが試金石となる。
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