「言われてみると、なぜ?」——普段は気にしないけど、指摘されると答えに詰まる身近な問い。今回のテーマは「なぜIT企業の社長はパーカーを着るのか」。マーク・ザッカーバーグのグレーのパーカー、ジャック・ドーシーの黒ニット帽、スティーブ・ジョブズの黒タートルネック。テック業界の経営者たちは、なぜスーツを着ないのか。「意思決定疲れを減らすため」という有名な説は本当に正しいのだろうか。
「意思決定疲れ」理論はどこまで本当か
ザッカーバーグが毎日同じグレーのTシャツを着る理由として語った「意思決定疲れ(Decision Fatigue)」の回避。朝の服選びという小さな判断を省くことで、重要な経営判断にリソースを温存するという理論だ。
意思決定疲れに関する主な研究:
| 研究 | 内容 | 結論 |
|---|---|---|
| Baumeister et al. (1998) | 意志力の消耗実験 | 自制心は有限のリソースである |
| Danziger et al. (2011) | 裁判官の判決パターン分析 | 午後になるほど保守的な判断が増える |
| Vohs et al. (2014) | 選択の連続が判断力に与える影響 | 多くの選択を迫られると判断の質が低下する |
| Carter & McCullough (2018) | 自我消耗説の再検証 | 効果は当初の報告より小さい可能性 |
一見もっともらしいが、2018年の再検証研究では「意思決定疲れ」の効果は当初考えられていたほど大きくない可能性が指摘されている。毎朝の服選びで消耗する意志力が、数十億ドル規模の判断に影響するほど大きいとは考えにくい。
では、テック経営者のカジュアルファッションには、別の理由があるのだろうか。
スーツは「既存体制」の制服だった
テック業界がカジュアルな服装を好む真の理由は、歴史に遡る。
IT産業とファッションの変遷:
- 1970年代:シリコンバレーのガレージ起業家たち。スーツを着る理由がない
- 1980年代:IBMの「ホワイトシャツ文化」がIT企業の標準に
- 1990年代:Appleのジョブズがタートルネック+ジーンズを定着。カジュアル=反体制の記号に
- 2000年代:Googleの「ドレスコードなし」が業界スタンダードに
- 2010年代:ザッカーバーグのパーカーがウォール街のIPO説明会で物議を醸す
- 2020年代:リモートワークの普及でさらにカジュアル化が加速
スーツとネクタイは、金融業界や法曹界——つまり「既存の権威構造」の象徴だった。テック起業家たちがそれを拒否したのは、意思決定疲れの回避ではなく「自分たちは既存の体制とは違う」というアイデンティティの表明だった。パーカーは反逆の旗であり、新しい価値観の制服だったのだ。
日本のテック経営者は「どっちつかず」
興味深いのは、日本のテック経営者のファッション事情だ。
| 経営者 | 企業 | 典型的な服装 | 文脈 |
|---|---|---|---|
| 前澤友作 | ZOZO(元) | カジュアル全振り | ファッション企業だからこそのカジュアル |
| 三木谷浩史 | 楽天 | スーツ寄り | 金融・通信事業があるため |
| 南場智子 | DeNA | ビジネスカジュアル | 業界と年齢のバランス |
| 山田進太郎 | メルカリ | カジュアル | シリコンバレー文化の影響 |
| 佐藤裕介 | hey(現STORES) | カジュアル | スタートアップカルチャー |
シリコンバレー型のカジュアル路線をとる経営者がいる一方で、日本特有の「取引先がスーツだから合わせる」文化がまだ根強い。銀行との融資交渉にパーカーで行くテック経営者は、日本ではまだ少数派だ。この「TPOで使い分ける」という日本的な折衷は、シリコンバレーの「断固パーカー」とは異なる文化的文脈を反映している。
パーカーは「新しいスーツ」になっていないか
ここで逆説的な問いを立てたい。テック経営者のパーカーは、本当に「自由」の象徴なのか。
パーカーの「制服化」を示す兆候:
- 若手起業家がピッチイベントで判を押したようにパーカーを着る
- 「スーツの起業家は古い」という新たな同調圧力の発生
- パーカーを着ることが「テック業界の一員」というシグナルになっている
- AllbirdsやPatagoniaが「テック経営者の制服」としてブランド化
- 結局、ザッカーバーグの真似をしているだけではないか
スーツを脱いでパーカーを着たとき、それは自由の獲得だった。しかし全員がパーカーを着るようになったとき、パーカーもまたスーツと同じ「制服」に変わる。反体制のシンボルが、いつの間にか新しい体制のシンボルになる。これは服装に限らず、テック業界全体に通じるパラドックスかもしれない。
あなたは明日、何を着て仕事に行くだろうか。そしてその選択は、本当に「自分で選んでいる」と言えるだろうか。
出典・参考
- Baumeister, R. F. et al.「Ego depletion: Is the active self a limited resource?」(1998)
- Carter, E. C. & McCullough, M. E.「Is ego depletion too incredible?」(2018)
- Vanity Fair「Mark Zuckerberg's Closet: Why He Wears the Same Gray T-Shirt Every Day」(2014)
- 各テック企業経営者のメディア出演・インタビュー記事
