「言われてみると、なぜ?」——普段は気にしないけど、指摘されると答えに詰まる身近な問い。今回は最終回。テーマは「なぜIT業界の人は副業にカフェ経営を選びがちなのか」。エンジニアやPMのSNSプロフィールに「コーヒー焙煎始めました」と書かれているのを見たことはないだろうか。技術ブログの合間に豆の焙煎プロファイルが投稿される。週末はポップアップカフェに出店。デジタルを生業にする人々が、なぜアナログの極みともいえるカフェに惹かれるのか。
コーヒー焙煎は「パラメータ調整」の塊である
エンジニアがコーヒーにハマる入り口の多くは、焙煎や抽出の「再現性」への驚きだ。
コーヒー抽出における主要パラメータ:
| パラメータ | 変数の範囲 | 味への影響 |
|---|---|---|
| 豆の産地・品種 | エチオピア、コロンビア、ブラジルなど数十種 | フルーティー、ナッツ、チョコレートなど風味の方向性 |
| 焙煎度 | 浅煎り〜深煎り(8段階) | 酸味↔苦味のバランス |
| 挽き目 | 極細〜粗挽き | 抽出速度と濃度に直結 |
| 湯温 | 80〜96℃ | 高温ほど抽出効率が上がる |
| 抽出時間 | 30秒〜5分 | 短いと酸味、長いと苦味が強くなる |
| 湯量と豆量の比率 | 1:12〜1:18 | 濃度に直結 |
| 注ぎ方 | 一投式、多投式、浸漬式 | 抽出の均一性に影響 |
一つのパラメータを変えると味が変わる。その変数を一つずつ固定しながら最適値を探る工程は、パフォーマンスチューニングそのものだ。あるバックエンドエンジニアは「焙煎はA/Bテストに似ている。仮説を立てて、一つだけ変数を変えて、結果を味覚で検証する」と語る。
デジタル労働者が「手で触れるもの」を求める心理
コーヒーへの傾倒には、もっと感情的な動機もある。
IT業界の仕事の特徴とカフェの対比:
- IT:成果物が目に見えない(コードはモニターの中) → カフェ:豆を挽き、お湯を注ぎ、カップに注ぐ物理的行為
- IT:フィードバックが遅い(リリースまで数週間〜数ヶ月) → カフェ:3分で一杯が完成し、客の反応が即座に返る
- IT:スケールを追求する(1人のコードが100万人に届く) → カフェ:目の前の1人に一杯を提供する
- IT:失敗のコストが高い(障害は全ユーザーに影響) → カフェ:失敗しても一杯分のコストで済む
- IT:リモートで完結する → カフェ:対面の人間関係が生まれる
デジタルの世界で日々を過ごす人ほど、「手触りのある仕事」への渇望が強くなる。これは心理学でいう「補償行動」の一種だ。抽象的な作業に没頭する時間が長いほど、具体的で物理的な作業への欲求が高まる。コーヒーは、その欲求を満たす最もアクセスしやすい対象の一つだ。
「小さく始めてスケールする」スタートアップ思考との親和性
IT業界の人がカフェを選ぶもう一つの理由は、カフェ経営がスタートアップの文法で語れるビジネスだからだ。
カフェ経営をスタートアップ的に分析すると:
| スタートアップ用語 | カフェ経営での対応 |
|---|---|
| MVP(最小限の製品) | 自宅焙煎 → 友人に配る → フリマ出店 |
| PMF(製品市場適合性) | 常連がつき始める瞬間 |
| ユーザーフィードバック | 目の前の客の「おいしい」 |
| ピボット | メニュー変更、ターゲット顧客の変更 |
| スケーリング | ポップアップ → 固定店舗 → 多店舗展開 |
| ARPU(顧客単価) | 一杯500円 × 1日50杯 = 2.5万円 |
| バーンレート | 家賃、原価、人件費の月次管理 |
副業としてカフェを始めるIT人材は、無意識のうちにリーンスタートアップの手法を適用している。最初は自宅のキッチンで焙煎し(MVP)、知人に試飲してもらい(ユーザーテスト)、反応が良ければ週末のマルシェに出店し(β版リリース)、固定ファンがついたら小さな店舗を構える(正式ローンチ)。
カフェは「もう一つのアイデンティティ」を提供する
最後に、少し内省的な視点を加えたい。IT業界で働く人がカフェに惹かれる根底には、「自分はエンジニアだけではない」というアイデンティティの拡張欲求があるのではないか。
カフェが提供する「もう一つの自分」:
- 技術者 → 職人(バリスタ)
- スクリーンに向かう人 → 人と対面する人
- 効率を追求する人 → 丁寧さを楽しむ人
- 組織の一員 → 自分の店の経営者
- 論理の世界 → 感覚(味覚・嗅覚)の世界
人は一つの肩書きだけでは息苦しくなる。特にIT業界は変化が速く、スキルの陳腐化への不安が常につきまとう。「エンジニアの自分」だけに依存するのはリスクが高い。カフェという「もう一つの自分」を持つことは、精神的な分散投資なのかもしれない。
この「言われてみると、なぜ?」シリーズを通じて、テック業界の何気ない日常の裏にある構造を探ってきた。筋トレ、ボードゲーム、エナジードリンク、パーカー、通知音、椅子、フェルミ推定、深夜のコーディング、そしてカフェ。どれも「言われてみると確かに不思議だ」という現象ばかりだ。
あなたの日常にも、まだ問われていない「なぜ?」が眠っているはずだ。
出典・参考
- Specialty Coffee Association「Coffee Brewing Control Chart」
- 中小企業庁「小規模事業白書」(2024) - 副業カフェ経営の統計
- Pink, D. H.「Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us」(2009)
- 各エンジニア・焙煎家のインタビュー記事(note、Zenn)
